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原爆と僕

[1425文字]

平和公園
1945年・1974年・2018年

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皆実町1丁目付近
1945年・1974年・2018年

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皆実町は1971年の約1年間、東京から引っ越して来て、
僕がまだ小学4年生だった時に住んでいた場所。
原爆投下から26年目の広島でした。

山が珍しかった東京っ子の僕は友達に誘われ、
近所の比治山にある彼らが作ったという基地に行くと、
それは雑木林の奥にある洞穴で、彼らが持ち込んだと思われる壊れたおもちゃや漫画もありましたが、
古びた瓶のかけら、鉄の鍋や水筒、朽ちた下駄なども沢山ありました。
戦時中に掘られた防空壕だという事らしく、
ある日大人達が大勢やって来てあっという間に穴を塞いでしまいました。

ある日は海に行こうと数人で自転車で宇品に向かいました。
自転車で海に行けるなんて当時の僕にとってはワクワクでしかありませんでした。
行った先の宇品島の木々に囲まれた丘を登ったところに公園があり、
そこにはコンクリートが露出した所や石の階段があります。
友達の話によるとこれは昔の大砲の台座なのだいう事でした。

またある日、犬の散歩に出かけていた僕は、
行ったことがない方向に行ってみようと思い、
山でも海でも川でもない方向に愛犬と共に歩きました。
そこに突如僕の前に現れたのは、
今保存か解体かで議論になっている元広島陸軍被服支廠の威容でした。
赤煉瓦が積まれた洋風の重厚な姿は、
小4の僕でさえ暫く唖然として見上げたものです。
等間隔に鉄製の窓が重々しく構えてますが、
どの鉄窓も歪んでいて、その時の恐ろしい爆風を連想させました。

東京から引っ越して来て住み始めた時は広島のことは何も知りませんでしたが、
広島は毎日のニュースに原爆の話題がったり、
東京ではなかった原爆の授業があったり、
庭のどこを掘っても割れた瓦や焼けた木材などの瓦礫で3cmと掘り起こせないとか、
同級生のお婆さんや親が寝たきりだったり、
体の何処かに酷いケロイドがあったり、
原爆症という名目で大人の誰かが亡くなったり。

僕は1971年の1年間で原爆や戦争の残り香を沢山吸い込むことにより、
現在もなお戦争や原爆は現実に街の後遺症として存在し、
目に見えて苦しんでいる人たちも多く、
ましてや目には見えない被害者も多くいるのだということを知りました。

その翌年1972年の春、
僕は広島市を離れ福山市へと引っ越しました。
福山でも東京と比べ平和教育は盛んでしたが、
クラスの中には原爆記念日がいつなのか分からない子が居たり、
福山は何処にも原爆の痕跡が見当たらないなど、
やはり広島の常識とは違うのだと実感しました。
もちろん誰が悪いわけではありません。
距離は意識を薄めてしまう。

大人になりここのところいろんな災害が頻発し、
神戸淡路大震災、東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故、
毎年各所で起こる水害や土砂災害。
これらのこともきっと離れたところの人達には対岸の火事。
実感がないのですからこれも仕方のないことかもしれません。

しかしこのコロナ禍は地球に住む以上は何処かの遠い話ではなく、
何処に居ても疫病災害の現場です。
意識を高く保つだけでも所謂クラスターなどは避けられますし、
災禍を抑えることは可能だと思います。
他者の痛みを思いながら自己防衛が出来るといいなと、
過去の災禍は教えてくれているように思う、
2020年8月5日です。