鬱:時間伸縮療法
【3969文字】
時間の伸縮についてはE=MC²で有名な、
かのアインシュタインが掲げた相対性理論が有名だが、
それとはまったく違う話なので勘違いしないように。
ここで話すのは単に感覚による伸縮の事であり、
人は時間感覚をどう感じているのかということである。
物理学上での絶対時間とは無関係である。
当事者であろうが観察者であろうがこの感覚は、
両者に起こり得ることだと確認しておく。
その時間的感覚が人の気分をどう操作するのか、
それを逆手に取った精神ケアなどが可能かを考えてみた。
その上で先ずは伸縮する時間について考える。
言うまでもなく普通の生活の中では時間は伸縮しない。
そして時間は進む。
ビッグバン以降宇宙に時間が発生し、
これまで一瞬たりとも休むことなく、
早くなることも遅くなることもなく、
きっちり几帳面に、
そして遠慮なく進み続けている。
まだ誰も通ったことも見たこともない見知らぬ場所へ、
ちょっと休みたいと思っている人がいても、
時間は遠慮なくどんどん進んでいく。
そして僕らは一人残らず、
全員この時間の最も先頭に立たされている。
少しだけ後ろに立っているなんて人は一人もいない。
常に全員横一列に並んで進んでいる。
寝ている人も働いてる人も、
笑ってる人も泣いてる人も、
回顧主義な人も、
未来を危ぶむ人も、
僕らの事情がどうであれ、
全員同じだけ前へ前へと押しやられていく。
行く先が思った通りの場所だったらいいが、
想像もしなかった場所なら誰だって嫌気がさす。
誰ひとりとして次にどこへ行くかも知らないまま、
君が望んでいても望まなくても、
みんなの前で大失敗しても、
あの娘とサヨナラしても、
ネコがいなくなっても、
親が死んでも、
自分が死んでも、
それでも時間は決して止まろうとはしないし、
速さも変えない。
時間に逆らうことはできない。
時間に命令も買収も懇願も泣き落としも効かない。
世界一の金持ちだって、世界一の権力者だって、
さっき生まれた赤ん坊もみんな、
ただ全員同じ速さで未来に進むだけ。
早めたり遅めたり止めたり戻したり、
人間には何ひとつできやしない。
出来るとしたら時間との付き合い方ぐらいか。
時間を大切にして、時間を無駄にせず、
時間通りに、時間に合わせて、
時間なんか気にしなかったり、
時間をかけずにさっと済ませたり、
反対にあえてゆっくり時間をかけたり、
時に時間に追われて、
時間切れになったり、
その時々で時間との付き合い方は変わる。
その時々によって時間感覚も変わる。
何かと時間には余裕があった方がいい。
ならば少しでも時間は長い方が良いと思うだろうか。
時間が長ければ長生きした気分になるだろうか。
人より長い時間を感じた方が得なのだろうか。
時間が早く進んでしまうのはもったいない?
時間が早く感じるのは、
きっとその人は今をもう少し楽しみたいに違いないからだ。
だけど時間はそんなことはお構いなしで、
どんどん前へ前へと進んでいってしまう。
時間が遅く感じる人は、
早くこの時が終わらないかと願ってるに違いないからだ。
だけど時間はそんなことはお構いなしで、
いつも通り遅くも早くもなく正確に進む。
経験上皆がそうだと思うだろう。
この様にマチマチに感じている人たちが、
常に一定に進む時間の最先端に並んで進んでいる。
みんなに平等に与えられた時間だと言うが、
見方によれば強制的に与えられる時間だとも言える。
時間を早く感じているときと遅く感じているとき、
早く感じてる時の方が幸せなのかどうか、
それは分からないが、
遅く感じるのは間違いなく辛いんじゃないだろうか。
どんな場合かというと、
もちろん退屈過ぎる時間とか、
先々に楽しみがあって今が待ちきれない時とか、
または一巻の終わりかもという一瞬が、
時間をより長く感じさせるように思う。
事故る瞬間などスローモーションに感じたり、
死の直前にはそれまでの人生が走馬灯のように、
などと表現したりするのがそれだろう。
これによって言えるのは、
時間は辛ければ辛いほど遅く感じ、
楽しければ楽しいほど時間を早く感じるといった、
右肩上がりのグラフが書けそうだ。
だとすれば時間も感覚も±0という点があるはずだが、
それこそが物理的時間に最も近似値といえる場所である。
近似値と言ったのはそれもまた絶対ではなく、
個体差が恐らくあるだろうと思われるからだ。
同じ赤であっても実際の赤と、
白内障の目で見た赤はまったく違う。
健康な目であっても個体差による誤差は必ずある。
これと同様に時間も人それぞれ感じ方が違うのだ。
これで言うなら健康な人と鬱病の人とでは、
恐らく大きく時間の感覚が違うと想像できる。
鬱病患者の1日は相当長いのではないだろうか。
逆に社会でバリバリと活躍し、
他人とのコミュニケーションも円滑な者は、
通常の人より1日を相当短く感じているはずだ。
もし鬱度という数値化されるものがあって、
それを測ろうとした場合、
治験者を時計のない環境に置いて、
例えば1時間の経過を感覚で知らせる実験をすればいい。
鬱病患者は実際の1時間より、
かなり早く1時間経過を知らせてくるのではないだろうか。
逆に充実した者にも同じことをすれば、
実際の1時間をかなり過ぎてから知らせてくるだろう。
いわゆるゾーンに入っている者は、
恐ろしく早い時間の中に身を置いているものだ。
人は自分と他人とを比べながら現在の立ち位置を知る。
なぜ自分は人並みに出来ないのだろうと思えば、
気分は暗く落ち込むのが当然である。
そうなれば時計の時間はなかなか進まなくなっていく。
この人は時間の進み具合を遅く感じているはずだ。
ならば時間の方を気分に合わせてやればいい。
しかし実際の時間は遅くも早くもならない。
なので勝手に感覚時計を作ってしまえばいい。
退屈だと思えばその時間は早巻きしてしまえばいい。
と言っても嫌な時間を切り上げて早々に終わらすのではない。
遅く感じている時間に対し忠実に生活するのだ。
早くこの作業が終わらないかな、と思っている場合、
すぐさまその作業をやめさせるのではなく、
きっとあと10分ほど我慢すれば終業定時で帰れる、
と思えば実際には終業時刻が残り20分でも、
10分で就業とするという意味である。
気が滅入っている人や鬱の人の感覚に忠実な時計、
つまりそういう感覚時計で回る生活環境を作り、
鬱当事者の時間感覚を軸にした世界に本人を住まわせれば、
前述のグラフ通りなら気分は必ず上がって来るはずだ。
その為に一旦鬱の者を社会から切り離す必要がある。
時間にズレが生じるので齟齬が生じるということもあるが、
健常者と鬱患者を同居させ絶対時間に縛れば、
長く辛い時間を生きる者の方が当然何かと不利であり、
その様子でまた自己非難し悪循環に陥るであろう。
骨折してる子を運動会に引き出し走らせれば当然負ける。
それだけではなく症状を悪化させ治癒を遅らすだけだ。
では一般社会から隔離させる目的で、
鬱病患者ばかりを集めればいいかというとそうではない。
現在その手の施設がそれである。
こうした施設は医療従事者や、
そこに携わる人々の都合時間で動いている。
通常社会と全く変わらぬ時間で動いているので、
患者を集めている意味がない。
しかし更に悪いことに、
規則正しい生活リズムという社会時間を強要させている。
健常者でさえともすれば守れないような規則は避けるべきだ。
つまり現在の精神科の入院施設は彼らを助けるためではなく、
一般社会の邪魔にならないよう隔離するため、
そして医療者が管理しやすくするための施設である。
この事はだいぶん改善はされてきてはいるが、
歴史的な例では患者を人間扱いしなかった実例も多くもあり、
社会の認識も含めまだまだ改善が必要なところだろう。
更に鬱病と言っても様々である。
1時間が通常より15分長く感じる人と、
30分長く感じる人では当然鬱の程度も変われば、
個人により療養生活のペースも大きく変わって来る。
保護者や医療関係者がその辺りをしっかり理解し、
個々に適した生活ペースを提供することが肝要である。
とはいえどんなに鬱感覚を合わせたところで、
さすがに日の出日の入り時間までコントロールはできない。
しかしそれがとても重要なポイントでもある。
患者はそれがあるがゆえに調整すべき方向を知れるのである。
医者であれ他人や社会に強制される生活は拒絶しても、
自然の循環に対しては許容があるはずだ。
でなければ一生を自己時間で生きることになり、
根本治癒にはならない。
つまり時間は全員に平等であるがゆえに、
絶対的な治療指標にもなり得るということでもある。
真っ暗な海原でも北極星さえ見つけられれば、
行くべき方角を知ることができるものだ。
自然の循環こそが彼らの頼るべき偉大な医師だといえる。
次第に鬱の人はより自然な時間へ調整され、
比例して鬱の症状も改善するのではないだろうか。
僕は専門医でも鬱病でもない。
ただ身辺の比較的近傍の者に何人か、
鬱の傾向、または治療をしている人、
又は回復傾向にある人などがいる。
眠剤と抗鬱剤で益々悪化して見えるのは、
やはり薬の耐性のせいで、
ある時期から副作用の方が目立つようになるからだろう。
それでも医者は更に強い薬を処方しようとする。
まるで意図的に廃人を作るが如くである。
もっと根本的な治療による完治法があるのではと、
素人ながら考えてみる。
認知行動療法など薬に頼らない方法もあるが、
どうしてもどこか対処法に感じてしまう。
根治させるにはどんな病因でも簡単ではないが、
精神の病は人を直接不幸にする厄介な病気だ。
なるべく早く気分だけでも良くしてやりたい、
そう考え思い付きを書いた。
大きな誤りがあるかもしれないし、
また致命的な勘違いがあるかもしれないが、
もし興味を持たれた医療関係者がおられたなら、
一笑に付してでも一度読んでいただき、
可能なら実験してもらえればと思った次第である。