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【スピンオフ】鳥越商事社員パンチこと元ライト級のプロボクサー日本チャンピオン ビクトリー勝田のファミリーヒストリー。

小説「鴉金屋の娘」第一部に多く登場したビクトリー勝田のファミリーヒストリーです。(2,639字:原稿換算6.6枚)

 ビクトリー勝田の本名は勝田五吉。彼の曽祖父勝田勝兵衛は、江戸時代日本橋の人気和菓子屋「青野屋獅兵衛」に幼少から丁稚奉公して職人となり暖簾のれん 分けを許された唯一人の職人だった。勝田勝兵衛は浅草浅草寺の門前に「青野屋勝兵衛」を開いたところ、店は繊細な和菓子から人気和菓子「大川の月」も好評を博し、浅草寺の土産としても有名になっていった。

 「青野屋勝兵衛」は代々息子が後を継ぎ商売を続けていた。「青野屋勝兵衛」の五代目で勝田五吉の父、勝田与平は商品を百貨店へ販売するなど、着々と家業を繁栄させていた。しかし大東亜戦争勃発から和菓子店の原材料確保が困難となり、また息子たちが次々に徴兵に取られ、七人の子どものうち、残るのは幼い五吉と生まれたばかりの双子の娘だけになってしまった。勝田与平は当時、四十の坂を越しており、兵役徴収は免れたが、生活が困窮する中、遠縁の伝手つて を頼り岩手へ家族揃って疎開し農業に従事していた。

 終戦後、焼け野原となった浅草に戻った勝田与平は闇市で手に入れた物資でサツマイモと砂糖を練り着色した菓子作りを始めた。菓子よりも食料の販売を求められていた時代、まっさきに買い求めてくれたのは、アメリカから進駐軍として日本にいた米兵相手に売春で商売をしていた「パンパン」と呼ばれる女性だった。彼女たちから甘くて赤いサツマイモの「アカサツマ」の人気がクチコミで都内の隅々まで広がっていったのである。

 粗悪な原材料で菓子作りをすることは職人としての誇りを傷つけるものだったが、勝田与平は三人の子どもたちとの将来を考え「アカサツマ」作りに精を出した。

 昭和20年も後半になると徐々に物資が入ってくるようになり、再び「青野屋勝兵衛」は和菓子店としての人気が復活しはじめていた。勝田与平の息子、勝田五吉は男兄弟がすべて戦死していたため、中学を卒業すると同時にすぐに「青野屋勝兵衛」の跡取りとしての和菓子職人の修行を余儀なくさせられた。15歳当時の勝田五吉は家業を継ぐことに従わざるを得ない状況での修行だった。

 勝田五吉が17歳の年、浅草にボクシングジムが開業した。橋口拳闘ジムである。昭和30年代、ボクシングの試合の結果はラジオニュースや新聞でも取沙汰され、ボクシングの日本チャンピオンが続々登場しており、日本各地でボクシングブームが起きていた。勝田五吉もボクサーに憧れて、橋口拳闘ジムに入門しようとしたが、父の与平がなかなか許してくれず、家業は必ず行い、ジムに通うのは家業が終わる18時以降との条件の元、ようやく橋口拳闘ジムに入門できた。

 橋口拳闘ジムの橋口貞治会長は、毎晩やってきてボクシングの練習に励む勝田五吉に才能があることを見抜き、ボクシングチャンピオンを育てた経験が豊富の若竹源蔵を雇い、トレーニングコーチとした。勝田五吉と若竹源蔵は相性の良い関係ではなかったため、半年で若竹源蔵によるトレーニングコーチは終了した。しかし若竹源蔵は勝田五吉のボクサーとしての伸びしろがあると信じ、橋口貞治の口を通して、勝田五吉に助言をしていたのだった。

 勝田五吉、20歳。ライト級デビュー戦、わずか3ラウンドでKOという華々しい活躍から、日本チャンピオンになるまで、22戦18勝(10KO)4敗という成績を残して、リングネームもビクトリー勝田となり、その名に恥じない戦いぶりだった。もともと勝田五吉は子どもの頃から喧嘩が強く、フットワークの軽さとともに、十代後半より砂糖袋や小豆袋など30kgの荷を背負い、問屋から和菓子屋まで歩いていたことで足腰のバネが鍛えられていた。ボクサーになる資質を持ち合わせて、プロボクサーになっていたともいえる。

 橋口拳闘ジムは日本チャンピオンボクサーのスター選手でビクトリー勝田が在籍していて一躍話題になった。日本各地から多くの練習生を迎え、都内でも有数のボクシングジムとなっていた。またビクトリー勝田の多額の興業収入により、平屋のジムを3階建てのビルに建設するなどで話題のつきないジムでもあった。そしてまた勝田五吉も1度の試合で和菓子店半年分の利益を生むファイトマネーを得ていて、ボクシングの練習をするより豪遊する方が多くなっていった。

 ビクトリー勝田は、フェザー級日本チャンピオンのジャガー西岡がスポーツカーのプリンススカイラインでリングに駆けつけている姿を見て、自分も憧れてファイトマネーの200円で同型車を購入した。一軒家が100円で建てられる時代、家より高い車だった。
 日本チャンピオン防衛戦の直前1週間前、戦勝祈願を神田明神で終えたあと、妻恋坂の交差点で黄信号を突っ切ろうとして猛スピードで走ろうとしたビクトリー勝田は対抗車線から走ってきて左折する車を避けきれず電柱に激突した。車は大破、頭部打撲、右腕骨折の大事故だった。この事故で怪我人は出なかったが、ビクトリー勝田のボクシング人生の終わりとなる。

 ビクトリー勝田の興業を控えていた橋口拳闘ジムの橋口貞治は、興業キャンセル料と違約金支払いで、資金集めのため奔走したが、支払金を集めきれずビルを売却することを決めた。ビクトリー勝田の事故直後から橋口拳闘ジムの行く末を案じた練習生たちは、こぞって他のジムへと移り、ジムには人影もなくなっていった。降り積もる借金を抱え、有限会社化していた橋口拳闘ジムは倒産し、橋口貞治も行方不明となった。

 ビクトリー勝田は事故後、頭部打撲の後遺症で視力が悪化し、右腕も骨折以降、力が入らなくなっていた。医師からボクサーとしては再起不能と診断されプロから引退したが、実家の「青野屋勝兵衛」では家業の手伝いもせず、ゴロゴロしている無職の生活を送っていた。父の勝田与平とは日々諍いが絶えない状況になった。
 そんな折、中学時代の同級生で元前頭力士の五月海山が鴉金屋の鳥越商事に入社したことをビクトリー勝田は父の与平から聞かされた。話のついでがてら五月海山へ会いに行くと、五月海山から「この仕事はな、身体ひとつ、がん を飛ばすだけでいい」と聞き、そんな仕事なら簡単そうだと、鳥越商事の社長、福宮政太朗に話を訊いてみることにした。

 鳥越商事の社長、福宮政太朗は、かつて勝田与平に度々金銭を貸し付けており旧知の間だった。その与平から息子の視力が衰えて見えづらいから、その目で出来る仕事が少ない。「給金は低くて構わない、どうか鳥越商事で雇って欲しい」と懇願されていた。政太朗はその話については何ひとつ触れず、勝田五吉に「うちで働いてみないか」と持ち掛けたのだった。
 二人が相談して示し合ったことで入社できたことをビクトリー勝田は知らない。


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