マリカにじさんじ杯にゲームの面白さの根源を見た
私は小難しく物事を考えるのが好きで、面白いものに出会うと「これの何が面白いんだろう」と、できるだけ根本的なところまで解明したくなる。
中でも、ゲームの面白さはどこから発生しているか、ということについてはこれまでの趣味人生の中で折に触れて思索し、いくつか知見を得てきた。
その知見のうち最も根本的な、ゲームの面白さの源泉と言えるような概念が本日開催された「第6回マリオカートにじさんじ杯 本戦」に溢れていたのだ。
ただし、その概念はゲームとは全く関係ないところにあった。
もう一度繰り返すが、ゲームの面白さの源泉と思っていた概念が現れたのは、ゲームの外の事象にだったのだ。
その概念が大会中のどこにあったかを語る前に、その概念はどのようなものかをまず説明する。
ゲームの面白さを生み出す根本的なメカニズム。
それは、「プレイヤーの決断が環境に変化を与え、変化した環境がプレイヤーの次の決断に変化を与える」という影響の循環関係のことだ。
これは、アクションゲームや音ゲーにはあまり適用しにくいが、それ以外の思考と決断を旨とするゲームにはほぼ全てに当てはまる。
麻雀を例に挙げると、プレイヤーそれぞれは自分の配牌という環境から最終的な勝利に最も寄与するルートを思考し、捨て牌を決断する。
その決断の結果、他のプレイヤーには捨て牌という新たな情報が提示され(つまり環境が変化し)、どの牌を捨てるのが有効なのかという決断に変化を与える。
こういったメカニズムのおかげで、常に環境が変化し、その都度有効な選択肢が変化することになる。
つまり、「常に有効な選択肢」というものがゲームから排除されることになる。
これが私の考えるゲームの面白さの源泉(のひとつ)である。
冒頭に書いた通りこれはとても根本的な原理で、ほとんどのゲームに標準搭載されている概念であり、
コンピューターゲームや卓上ゲームに限らず、野球やサッカーなどのスポーツにも当てはまるものだ。
勿論マリオカートというゲームにも、今大会の形式にも、この要素は含まれている。
(最後のインタビューでイブラヒムが「勘違い」と前置きした上で言っていたが、決勝戦の序盤でシェリンが大量得点していた状況ではシェリンよりもイブラヒムが高順位になったほうが他プレイヤーにとっては得なのだから、みんながイブラヒムを援護していたという推論はゲーマーとしてはある程度妥当性のあるものだ)
だが、今大会で私が強く感動したのはそこではない。
ゲームの原理にゲーム内の展開が即しているのは当然だ。
そうではなく、ゲームの原理が、(いや、ゲームの原理だと私が思っていたものが、)ゲーム外に適用されていたことに気付いて感動したのだ。
今回のマリカにじさんじ杯のどこにそんな要素があったか。
それは、アピールタイムの呪術廻戦ネタ擦りにだ。
ふざけて言っているのではない。私は真面目にここに感動したのだ。
告白すると私は呪術廻戦を読んだことが無く、また今回のネタ擦りの震源地と思われる練習配信も見ていない。
そんな、ネタを受容する下地が何一つ整っていない私が、一連のネタに大笑いしたのだ。
何がそんなに良かったのかというと、葛葉たち4人から始まったであろうネタに
シェリンやアルス、りかしぃ、北見、エクス、長尾、笹木、剣持が次々に即興で乗っかってきたことだ。
呪術廻戦ネタが本配信で盛り上がったという環境の変化が、自身のアピールタイムに何を出すかという決断に変化を発生させ、それが連鎖していったのだ。
今ここでどんな行動をとれば面白いか、というのは配信者の基本行動原理だと思うが、その中で周りの状況を読んでネタに乗っかった嗅覚と行動力は素晴らしく、
そして何よりもその一連の流れがあまりにも上述のゲーム的な挙動だったことに気付いて感動したのだ。
ゲーマーがゲームの中の勝利を目指した時に場が動く挙動と、
配信者が配信の盛り上がりを目指した時に場が動く挙動が、
同じ根本原理を用いているということに気付いて感動したのだ。
なぜ私はVtuberを、にじさんじを好きになったのか。
ということを2020年あたりに彼らに触れてからずっと考えていたのだけど、その答えの一つとして、「今までずっと好きだったゲームたちと同じ力学が働いているから」という説明を付けることができた。
独立したものと思っていた二つの概念の裏に、実は一つの原理が働いていたという気付きは、この世の数多の創作物語が示す通り大変に気持ちのいいものである。
今夜、私はこの感動に突き動かされ、ここまで長文を書き連ねてしまった。
ここまで読んでいただいた皆様には本当に感謝したい。
私の頭に訪れた概念を架橋する気付きが、多くの人に訪れることを強く願う。
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