見出し画像

「察しすぎて疲れる」からの卒業

先日、初対面の人と話していると、「すごく察しがいいし、ハイコンテクストな話なのに理解が早い」と褒めていただきました。

私は、間違って理解して話を進めないように、会話する中で「それってこういうことですか?」「じゃあこうなりますよね」という確認を細かくしていく癖があります。これはズレがあったら早めに訂正してもらえるし、その人が何となく話していたことを別の視点から言語化することにもつながるので、感謝されることもあります。

この確認が、その人にとって毎回的確だと感じてもらえたようでした。

察しがいい、理解が早いと言って頂くことは多いので、自分の特徴だと思えています。今の仕事にもとっても役立つし、ありがたい特徴です。

●「察しが良い」ワケ

「なんでそんなに察しがいいの?」と聞かれることもあります。なぜ察しがよくなったのかについては、生まれつきの性質もあるのかもしれないけれど、2つくらい要因として考えていることがあります。

(1)本ばかり読んでいた
人間の感情の機微が描かれる本が好きで、幼稚園の頃から中学生まで、ものすごくたくさんの本を読んでいました。最近は全然読めていないんだけど…。小学生のときは重松清やよしもとばなな、中学生のときは江國香織や三浦綾子なんかを読んでいて、人間にはいろんな感情があって、いろんな思考の人がいる(=全員が1つの現象に対して同じ思考をしたり感情を抱くわけではない)ということを感じていました。

(2)親の顔色をうかがっていた
私の親は良い面もたくさんありますが、理不尽な怒り方をすることもありました。中学生くらいからは親も人間なので仕方がないと思えるようになりましたが、それまでは必要以上に親の気持ちを深読みし、先回りして平穏に暮らそうとしていました。

この察しの良さのおかげで、人の感情にいろいろと気付いてしまう私は、「さっき口ではこういっていたけれど、本当はこう思っているな」と思って本人が希望する流れになるように話を持っていったり、自分が我慢して譲ったり、裏でこっそりヒアリングしてその不満が解消されるように動いたりしていました。

でも、この「察する」ことを、高専の何年生かになった頃に、やめました。

理由は、疲れるから

私が察して動くことで、悪者にならずに希望が叶った人や、スムーズに事が運んだ人はいました。私はすごくコミットしたり、我慢しているので、疲れます。でも、こっそりやるので誰も気が付きません。私だけ、自分で自分を大変にしてない…?

「もっと気付いて、私を褒めて!」ということではなく、「これは私が勝手にやっていることなのに、何を疲れてるんだろう」と疑問に思ったのでした。

明確に、「こう思っているから手伝ってほしい」「これは私は嫌なので変えてほしい」と助けを求めてくるまで、こちらで察しすぎるのはやめよう、と思いました。その結果、事がうまくいかなくても仕方がない。人の領域にくちばしを突っ込むのはやめよう、もっと自分勝手に生きよう、と思いました。

その結果、とても生きやすくなりました。

「実はこう思っている」とか、「本当はこうしてほしいんだろうな」ということは、今でも気が付いてしまいます。でも、できるだけ気が付かないように、そして察して勝手に動いたりはしないようにしようと決めました。

この話を同じようなタイプの人にしてみたら、「高校生の年で気が付けて良かったね、私は子ども産むまで気づけなかったよ」と言われました。

もっと小さい頃に気付ける人もいるだろうし、後になってから気付く人もいるでしょう。察する程度もいろいろで、細かい感情の動きレベルから、「飲み会でサラダを取り分けるべきかどうか問題」レベルのことまであります。

いずれにしても、「相手の気持ちを察したからといって、必ずしもこちらが汲み取って動いてあげる必要はない」という普通のことに、社会に出る前に私が気付けたことは、だいぶ生きやすさに関係していたなぁと、冒頭の会話から考えたのでした。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

14
美味しいものを作ったり食べたり盛り付けたりするのが好き。文章への姿勢も同じ/モノ、ヒト、コトへの編集的アプローチ/高専→工学部生命工学科。記者&編集者。今は医師向け雑誌「日経メディカル」所属/社則による免責文:投稿内容は私個人の意見です。

この記事が入っているマガジン

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。