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本物のパンとの出会い

わたしはパンが大好きだ。

今これを書いているのも、美味しいパンを食べたあとの、誰かに伝えたい衝動に駆られたからだ。

ただ、何のオチもなく終わりそうだから、
本当〜にヒマな人だけ、あとパン好きな人だけ、
読んでもらえたら嬉しい。

パン、と聞いてみなさんが想像するものはどんなパンだろう?
パリッパリで繊細な高級クロワッサン?
朝食の定番のトースト?
スーパーやコンビニで100円で買える菓子パン?
ちょっと前にブームを牽引した高級食パン?

パンと言ってもいろいろだ。

どんなパンも好きなのだが、
本当に美味しいパンというのは、香りがまるで違う。
と思っている。

わたしが思う、美味しいパンとは
小麦の香りが一口噛むと鼻を抜け、飲み込むまでずっとそこに居続け、
バターもジャムも用意はしてみるものの結局使わず、
ただ黙々と、香りと食感(と見た目)だけを楽しめる
そんなパンだ。

わたしにとって甘いものやパンを食べる時には欠かせないコーヒーさえも、
その時は要らなくなる。


パンの魅力にハマったのは、東京に来てからだ。
地元愛知から上京して、1年半経つ。
きっかけは明確にあって、ブーランジェリードリアンというパン屋さんのパンを食べた時からだ。

ドリアンを知ったのは、ドリアンの店主が書いた本、『捨てないパン屋』
地元の図書館で何気なく借りた本だった。

その時までのわたしの中の「パン屋」のイメージは、
価格帯は違えど、惣菜系からクリームやチョコなどの甘い系まで、
常に何種類もあり、目移りしながらその時の気分で食べたいものを選べる、
というようなものだった。

しかしドリアンのパンは、片手で数えられるほどしか種類がない。
しかも、惣菜パンとかクリームパンとか、そういうゴチャゴチャしたものではない。

材料:小麦粉・塩・水
以上

みたいなパンなのだ。

もちろんそれには理由があって、
材料やパンを作る工程を極力減らして、働く人の負担を軽減する。
その代わり、ひとつひとつの材料には、徹底的にこだわる。

「材料がよければ、手を抜いたって美味しい」

「手を抜く」という言葉を使ってこんなニュアンスの一文があって、印象的だった。

(以下、ネタバレあります)

本の中で、「本物」のパンという言葉がでてきた。
ドリアンの店主は1代目ではなく、もともと実家がパン屋を経営していた。
だが、その当時は、それこそ惣菜パンとかクリームパンとか、いろんな種類のパンを朝から晩まで休みなく焼いていて、
そんなに一生懸命焼いたパンが、売れ残ったら捨てられる。

そんな光景を目の当たりにしていた現・店主は、
これらのパンは「本物」じゃない、と感じたそう。

流行りやイベント事に合わせて新作を出したり、
興味をひくようなパンチの効いた「売れそうな」パンを考える。
でもダメだったら捨てるしかない。

「本物」って、こういうことじゃない。
もっと、本質的で、いつの時代にも変わらずにあって、
刺激はないかもしれないけど、なかったら困る
日本だったらお米がその代表格のように、ヨーロッパだったらやっぱりパンがそうなのだろう。

(注:記憶の中のニュアンスで書いてます。一度わたしの頭のフィルターを通していますので、実際の内容とズレているかもしれません)

本質的とか、本物とか、
そういう言葉がすごく印象に残っている。

実際、わたしも学生時代、短期でやってみたパン工場のアルバイトで、
大量に生産され、大量に捨てられるパンを目の当たりにした。
1秒間に何個も出来上がるパンは、
食べ物には見えない。
ちょっと中身がはみ出てるとか、形が潰れているものは、
廃棄用のカゴに投げ入れられる。
そのスピードと量に圧倒され、「もったいない」なんて思うヒマもなく、
ゴミ袋に廃棄パンを詰める作業が一番辛かった。

パン工場の主役はあくまでパンを生産する機械で、
そこで働く人間は、機械に操られているような感覚になった。

服も2、3年前から、
何着も持たずに、だけど一着一着はお気に入りの、
何年も使えるようなものを持ちたい、と思っている。

ドリアンのパンを初めて食べた時、
「これが本物のパンなんだ!」と思った。
冗談抜きに。


パンの美味しさについて取り留めもなく書こうと思ったら、
パンとの出会いの話になってしまった。

東京は美味しいパン屋がたくさんある。
美味しいパンを求めて毎週末出かけるのが楽しみ。
美味しいパン片手に、これまた美味しいコーヒーがあれば、私は幸せ!


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