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「いい経験」や「成長できる」は本当に自分のためになる?

「成長できるかも」「いい経験になる」「面白そう」

誰かに「やってみない?」と話を持ちかけられた時、
わたしは、上の3つのようなことを思ったら
必ず「やってみたい」と返答していたように思う。

「なんでもやってみたい」って一見、好奇心旺盛で向上心があり、とても良く聞こえる。

けれど、それはもしかしたら、
逆に自分の可能性を押し殺していただけなのかもしれない。

そう思ったきっかけが、
WEBライティングの世界で「バズライター」という異名を轟かせた塩谷舞さんのエッセイ『ここじゃない世界に行きたかった』という著書の中の一文だ。

そもそも、もっと成長したいからと自分にたくさんの仕事を与えていたはずなのに、それが自分の足枷となっていたのかもしれない。

塩谷舞『ここじゃない世界に行きたかった』より

塩谷さんは、「任されたら期待に応えたい」、「困っている人がいたら助けてあげたい」という奉仕精神が強い方で、
それに応えて上手く回せる自分にも成長を感じていた。
でもそれが行き過ぎてしまい、身体を壊してしまった。
そこで、自分の内側に問いかけながら、いくつもあった仕事を、本当にやりたいものだけに絞っていった結果、
書く時間が大幅に増え、今までにはなかった表現欲や、書くこと自体の楽しさが、(塩谷さんの表現を借りれば)『めらめらと出てきた』というのだ。

この一文はグサリと刺さった 。

「なんでもやってみたい」って、結局は、
自分が本当にしたいことが見つかっていないことの裏返しなのかもしれない。

自らが自発的にやりたい!と思うことがないから、
与えられた目の前のことを、とりあえずやっておけば自分のためになる。
どこかで役に立つ。
そんなふうに心のどこかで思っている。

もちろん引き出しを多く作るのはいいこと。
だけど、引き出し作りに一生懸命になって、
本当に自分が欲して「やりたいこと」が見えなくなるなら、
一旦立ち止まって考えてみるべきかも。

忙しくしてれば成長する
そんな幻想を抱いていた。

忙しくしてると自分が「いろんな経験をしてる」感があるし
できることが増えると嬉しい。達成感もある。

けど、その増えた、できるようになったことって、
その得た達成感って、
本当に自分が求めていたこと?

その大してしたくもない「経験」をしてる時に
本当は他にしたいことがあったんじゃないか?


ここ数日、慣れない仕事に追われながら
疲れ切った頭に、疲れ切ってるとは思えないほど、思考が自分の意思を介さず濁流のように右から左へ、上から下へ流れていくのを、
ただただそのままにしていたら、

ふと、そんなようなことを思っていました。

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