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エッセイ 「コンビニ人間」という小説を読む

今日は午前中、友人らとプールに遊びに行き、午後からは天然の滝を眺めて「壮観ですなあ」とボヤき、夜からはマクドナルドに行って、論文をちまちま読みながら、「コンビニ人間」という小説を読了した。家にほとんど居ない充実した日であったと言えよう。

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特筆すべきことは多々あったが、「コンビニ人間」の複雑な読後感によって、今日(昨日)は安眠できそうにない。

「コンビニ人間」は、大学時代から始めたコンビニでのアルバイトを卒業後も、18年間勤めた女性の話である。主人公は、「普通の人生」に悩むことによる苦悩や葛藤、周りの人々からの不信感に打ちのめされることは特に無く、むしろコンビニがもたらす「清潔」(整理整頓された陳列棚、綺麗にマニュアル化された勤務形態など)という名のアイデンティティに迎合することで、歯車として機能する自分に喜びすら感じていたように思う。(同本の解説を一部参照)

私もアルバイトをしているわけだが、いつも行なっている仕事の手順が不都合なく進むという喜びに疑問を感じる人は少ないだろう。マニュアル通りやっていれば、トラブルやエラーを回避することができるからである。

しかし、マニュアル化が進む先は虚無であることは今の社会を見ていれば良くわかる。よく言われる「マニュアル人間」への批判が最たるものである。決まりきった人生のことを「敷かれたレール」と表現することにも同様のことが伝わってくる。

今回読んだ「コンビニ人間」は、マニュアル化社会への警鐘や批判といったそんな安直な構図では無いことは確かだと思われる。もっと軽く、むしろユーモアすら感じさせる「マニュアル人間」の様子があった。
「機能」、「歯車」、「使える/使えない」、「(店員の)補充」。これらのアルバイトにおいてよく使われる言葉を、悲しげも無く、淡々と描写していることには衝撃が走った……

なんか眠くなってきたので、今日はここで筆を置くことにする。


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