見出し画像

大モラトリアム時代への咆哮

私には悩みがある。

それはしたいことがあっても、本当にそれは私のしたいことなのか、自分で判断できないことである。「いやお前さんよ、そんなこともできないのかね」と飽きられるかもしれないが、私の志と意識の低さは筋金入りである。

頑張ろうとすればするほど、私は目の前の結果を出すことだけに躍起になり、先見の明を持とうとしないのである。

大学受験はその点では非常にラクだった。誤解を招く言い方だが、大学なぞ入るまでが私にとって勝負であり、その後のことは深く考えたことがなかったからである。その結果、田舎の普通科高校が喜びそうな、勉強を盲従といわんばかりこなす、おもしろくもなんもない人間へと退廃させてしまった。もちろん、これは私の私に対する一評価である。

だとすると、大学の自由奔放さに私は何もすることなく、大学生としての日々を空費していたかというと、案外そうでもなかったと思う。大学に入って意外な発見をしたからだ。それは文章を書く楽しさである。文章は面白い。

高校時代までの古文の係結び、漢文の反語表現、現代文の筆者理解。今思い返すと、高校までの国語は本当に酷かった。

話は脱線するが、「高校時代の国語は嫌いだった」という人が私の周りには結構いる。そういう人たちが蔑むのは、「筆者の気持ちを理解するとかナンセンスだろ」といった文章の解釈に単一の模範解答を示す高校までの国語教育の在り方である。

しかし、私は彼らとは全く違う理由で、国語が嫌いだった。

「単純に難しいのよ、あの問題」

私は文章を読むのが遅い上に、要約技術も皆無であったのだ。みんなが言う国語の「嫌いだわ」のロックンロールな感じがどれほど羨ましかったことか。私だって、言いたかったよ!

「文章の解釈に模範解答はいらね」とか「筆者の気持ちとかくだらね」とか。でも、私はそのステージにすら上がらなかった。なぜなら、国語は本当に難しかったからだ。300人中200番台をどれだけキープしてきたことか。そう考えると、虚しさが募るばかりである。

国語の文句ばかり言っても何も始まらない。
そんな私が文章を書くのにハマったとか、意外でしかない。大学の師がやたらと私の書く文章を褒めてくれたおかげかもしれない。おそらく、私は褒めて伸びる人間なのだろう。ありがとう師。

そして、文章を書く楽しさを知った阿呆の私は、踊り念仏かの如く、大学3年生からパソコンのキーボードの上を踊った。
スマホの入力画面の上を踊った。
原稿用紙の上を踊った。
踊って、踊って、すってんころりん。
あやまって頭を打ちつけた私は空を見上げる。

それは今日の空である。
私は一体、今まで何をしていたのだろう。私はボッーとすると、名もなき詩人になる。今日もポエマーは気持ちよく人生を悩む。自己問答を通して、万物を理解した気になったポエマーは今日もnoteに持論を展開して、イイねをもらう。

アァ、私は何をしているのだろう。したいことがわからなくなってきている。文章を書くと同時に存在する内向的要素が増幅し始めている。湧き出る疑問が消化できない。キャパオーバーである。

書くことが好きになったのは、確かだ。ただ、それだけで良いのか、書けば書くほど、自分に迷う。迷う。迷う。もっと自分の気持ちを限りなく形容してくれる言葉は無いのか!

私の中のゴール・D・ロジャーが何かほざいている。

妄想、夢想、狂想。この世の全ての堕落を味わった男。ゴールドロジャー。
彼の死に際に放った言葉は世の大学生たちをモラトリアムに誘った!
「堕落した大学生活を正当化する言い訳か? 欲しけりゃくれてやる。探せ!この世の語彙を底に置いてきた!」

世はまさに大モラトリアム時代!

#エッセイ #日記 #大学生


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?