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全ての差別が無い世界になれば良い ← これ、凄く危険なことだという事実に気が付いてしまいました。


差別問題などが取り上げられた際、良くこんな意見を耳にします。

『差別の無い世界を目指して……』
『差別の無い世の中になれば良い』

私がまだ世の中の仕組みをあまり知らなかった頃なら、これは素直に素晴らしい考えだと感じたかもしれません。


しかし現在は違います。

もしも差別の無い世界というものが実現したらどうなるのか?

そのことをシミュレーションするだけで、怖ろしくてたまりません。




と、これだけじゃ私が色々誤解をされてしまいそうなので、簡単に理由を説明しますね。


まずはみなさんの力で、世の中からどんどん差別が無くなっていくと仮定しましょう。

その場合、【最後に残る差別】とはいったい何でしょうか?
他の差別が全部無くなって、それでも残る差別ですよ。

私はそれは『差別をしている人に対する差別』だと考えています。

簡単に言うと、【差別という概念】があるからこそ、人は差別に気付く。
だから最後には、差別に気付く為に必要な、【差別者への差別】が消えると推測しているわけです。



こうして世の中からは差別という概念が完全に無くなりました。

差別の無い世界の誕生です。


一見、これはとても素晴らしいと感じるかもしれません。

しかし本当にそうでしょうか?


差別という概念が無くなった結果、世の中には、差別がいけないという概念もまた存在していないことになります。


差別という意味を知らないからこそ、そこにまた差別が誕生してしまうとは思いませんか?

しかもそれがいけないことだという価値観も無くしてしまった結果、とんでもなく酷い目に遭う人達が、大量に産まれてしまうとは思いませんか?

要するに、差別がいけないことだとみんなが認識する前の社会に逆戻りしてしまうというわけです。




世の中はバランスで成り立っています。
何かにとって都合の良すぎる世界は、他の何かを犠牲にしています。


そのバランスは振り子のようなもので、ある時は特定の何かに都合が良くても、いずれは逆の立場になるようにできています。


だからこそ、いくら都合が悪いからと言って、すでに存在する何かを消滅させるというのは、極めて危険なことだと私は思うのです。


差別は決して良いことではありません。
でも、その存在自体を否定してはいけないと思うのです。

だって、差別がいけないって理解できるのは、差別を知っているからこそじゃないですか!


それに存在する特定の何かを、存在しないことにしようとする考え方があまり好きじゃありません。

言葉狩りですら危険だと感じることがあるのに、ましてや概念の否定なんて、怖ろしくて仕方がないです。


私は臭いものには蓋をするのではなく、嫌な過去も何もかもを現実として受け止め、成長していく方を選んだ方が良いと思うのです。


差別はどうしても生まれてしまう。

だったら、
【差別があるということをみんながちゃんと理解し、それによって虐げられた人々の哀しみや辛さを学んだ上で、差別を「いけないこと」だと認識する】
ことの方が、自然で良い結果に繋がるとは思いませんか?


だから私は

『差別はどうしても無くせない。でも、誰かが辛い目に遭うような差別を、みんながしないような世の中になれば良い』

そう考えています。



そしてこの考え方は、次回も続きます。

だって、こういう『確かに存在し、無くすることは極めて難しいにも関わらず、あってはいけない』という考え方をすることによって、解決がどんどん遠ざかっていってしまっている社会問題があるのです。

私はその社会問題は『無くすることはできない』とまずは認めることで、結果的には、解決できる比率をもの凄く向上させることが可能だと考えています。



詳しくは明日の予定です。





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