あの日、父と兄の片手には瓶ビールがあった
「またオヤジは余計なことを……」
両親と私、親戚が座る家族席から一番遠い、新郎席に座る兄。その日ずっと笑顔だった兄が不機嫌そうな顔をしていた。兄の視線の先には、瓶ビールを片手に持ちながら、頭を下げてテーブルを廻り、ゲストにビールを注ぐ父がいた。
残暑が残る9月の土曜日。大阪市内のホテルで、兄の結婚式と披露宴が開かれた。新郎新婦席から一番遠い2つの家族席には、父と母、母方の祖母と祖母の義妹、両親の兄弟姉妹が座っていた。披露宴の中盤「それでは皆さま、お食事と御歓談をお楽しみください」と司会者が告げると、父が動き出した。
「栓開いてへんビールあるか?」
テーブルを見ながら父が言った。3本ほど父の前に集めると、その1本を持って「ほなワシ挨拶行ってくるわ」と忙しくなく席を立った。「ほんま、落ち着かん人やなあ」ぼやきながらも母は、止めるでもなく一緒に行くでもなく、食事を続けていた。
しばらくして、母が呟いた。「お父ちゃん、どこまで行ったんやろ? 仲人さんとこと、兄ちゃんの先生や上司の人らのテーブルにお酌しに行っただけやと思とったのに、帰ってこんなあ」テーブルには、手をつけられていない父の分の料理が、いくつも並んでいた。会場内をぐるりと見渡したとき、私は不機嫌そうな兄の顔を見つけた。
「ほんまにオヤジは……」
そう言っているような顔だった。兄の視線を辿った先に父がいた。兄の友人席で頭を下げ、一人一人にビールを注いでいた。注がれた方は恐縮しながら、頭を下げてビールを飲み干していた。
「お父さん、おったで。お兄ちゃんの友達にもビールお酌して廻ってるわ」空になった瓶はウェイターさんに渡して、栓を開けたビール瓶を手にお酌してまわる。そんなことを繰り返しているようだった。
「日本酒がええ人、ワインが好きな人、お酒飲めん人もおるやろうに。そういう気が回らん人やからなあ」
母は、美味しそうにステーキを食べながら言った。「やっぱりサーロインよりヒレがええな」父でなく肉の話に変わった。
「そやけど義兄さんはえらいなあ。うちの人やったら絶対息子の友達に頭下げてお酌して、なんてやらんわ」
叔母のひとりがぼそっと呟いた。
「あの人は、義理堅い人やから」
ずっと黙っていた祖母が父を見ながら言った。
ようやく父が席に戻ってきた。冷めた料理を美味しそうに食べて祖母や叔母達、そして母と私にビールを注いだ。兄を除いた家族で乾杯した。
「披露宴の最後に、新郎新婦の両親代表で、あんたが挨拶言うんやろ?」行き当たりばったりのところがある父を母は心配していた。父は事前の準備など一切していなかった。
「大丈夫や。ワシ、毎週月曜日、朝礼の司会しとる」
「義兄さん、中学校の朝礼と息子の披露宴一緒にしたらあかんわ」叔母がカラカラ笑いながら父に言った。中学校教員をしている父は生徒の前で話すのは慣れている。だが、叔母が言う通り中学校の朝礼ではなく息子の披露宴だ。「大丈夫かいな」母はちょっと心配そうだった。
「…… 息子がお世話になった上司の方、恩師である○○先生、友人の皆さんのスピーチを聞き、少しお話しもさせていただいて。私が初めて知る息子が、そこにいました。親いうもんは、子どものこと、何も知らんもんやなあと改めて思いました」
両家代表の挨拶。招待客へのお礼を述べた後、父はその日感じたことをそのまま話した。兄は神妙な顔でじっと父を見ていた。
「おばちゃん、式でも披露宴でも泣かんかったのに、あんたのお父さんの挨拶で泣いてしもたわ」
カラカラ笑っていた叔母が目を赤くしていた。
「義兄さん、ええ挨拶やったわ」
おめでとうでも、ええお式でしたでもなく、叔母は会場外でゲストを見送る父に、そう言っていた。
◇◆◇◆
兄と父はずっと仲が悪かった。兄が小学生の頃、父子でよくキャッチボールをしていたが、中学で兄が野球部に入るとそれもなくなった。やがて、二人の会話がなくなり、高校生になると兄は家で話さなくなった。きっかけは全くわからない。そこから兄の長い長い反抗期が始まった。
20代になった兄は、父への物言いがやたら偉そうになっていた。
「あいつは何であんな偉そうな言い方するんや」
父は兄に直接言わず、母や私に不満そうに言う。「本人に言うたらええがな」母と私は言い返す。さすがに母が時々兄を注意していたようだが、兄は変わらなかった。唯一兄に注意をしていた母は、兄が結婚して4年後に亡くなった。その数年後、兄は父親になった。柔らかく明るくなり、私ともよく喋るようになったが、父とはほとんど喋らず、たまに偉そうな言い方になっていた。
「あいつはほんまに……」
兄一家が帰ると父はよく愚痴っていた。
◇◆◇◆
オヤジが危篤や
3年前の5月。兄から突然メールがきた。喪服を用意し息子の学校に連絡を入れ、数日実家で過ごすためにパッキングを始めた。新横浜発のぞみの時刻表を見ていたら、兄から2通目のメールがきた。
オヤジ、今なくなった
父に認知症の症状が現れ、要介護になり、肺炎で亡くなるまでの5年間。兄は毎週実家に帰っていた。普段父の世話をしてくれる人が1週間不在の時は、私が実家に行き父の世話と家事をしていた。そんな時も土曜の朝になると兄は実家に来て、「お前、もう横浜戻ってええで」と交代してくれた。管理職になり仕事が忙しいと話していたが、週末になると実家に来て、父との会話はほとんどなくても、父の世話をしていた。
「あいつは何であんな偉そうな言い方するんや」
こまめに実家に来ても、父の世話をしても、父に対する兄の態度は変わっていなかった。父も昔と変わらず、兄に直接言えず、たまに会う私に愚痴っていた。
「あんな、お父さん。もう諦めえや。お兄ちゃんのあの物言いは、もう変わらんで」
10代の頃から変わらない、父に対する兄の態度。それを愚痴る父。40年も続くと呆れるを通り越して面白くて、私は笑いながら父にそう言った。
父が亡くなる4ヶ月前の正月。父、兄、私と三人で久しぶりに実家で数日過ごした。父と兄はほとんど会話がなかったが、それでも懐かしい家族の時間が戻ったようだった。
「ワシは自分のオヤジに、あんな偉そうな言い方せんかった」
私が横浜へ戻る日の朝、思い出したように父が言った。私が父と交わした最後の言葉は、何十年変わらず聞いた兄への愚痴だった。
◇◆◇◆
「オヤジは酒が好きで、賑やかな場が好きでした。大したものはありませんが、みなさんとオヤジのこと偲ぶ時間にしたいと思います」
「献杯」
兄がビールのグラスを上にあげた。私たちも黙ってグラスをあげた。父の通夜振る舞いの席で、初めて会う私の親戚に囲まれ戸惑う夫を横目で見ながら、私と息子、甥っ子と姪っ子、義理姉もテーブルの料理に手を伸ばした。明日の段取り、これからのことを義理姉と話していたら、兄がビール瓶を手にとり、父方の親戚、母方の親戚が座るテーブルを廻り始めた。
「やっぱり親子やなあ。お父さんとおんなじことしてるわ」
あの披露宴会場でビール瓶片手に頭を下げて廻っていた父と、「急なことやったねえ」と声をかけられながら、頭を下げてビールを注ぐ兄が重なった。
「兄ちゃん、今夜は飲むぞ」歳の離れた従兄二人が、父の故郷佐渡から大阪まで来てくれた。兄にビールを注いで「大変やったな」とグラスを合わせていた。歳の離れた従兄、従姉に囲まれ、兄は楽しそうに話していた。
「明日まだ葬儀があるねんで。あんた喪主やで」
兄の前にある空のビール瓶を片付けながら、兄嫁はきっちり釘を刺してくれた。よかった。そろそろ私が釘刺しに行かなあかんかと思っていた。
「明日もあるし、そろそろ実家戻って休もうか」夫と息子に声をかけ、父に手を合わせようと棺のそばまで行った。グラスに入ったビールと寿司や揚げものを盛った皿が、父の側に置かれていた。
「お父さん、長い間お疲れ様でした。ありがとう。お母さんやおばあちゃん達によろしくね」
父と最後の乾杯をした。
「あいつは最後まで、ほんま偉そうにワシに言うとったわ」
父が母に愚痴っている姿が見えた気がした。
美味しいはしあわせ「うまうまごはん研究家」わたなべますみです。毎日食べても食べ飽きないおばんざい、おかんのごはん、季節の野菜をつかったごはん、そしてスパイスを使ったカレーやインド料理を日々作りつつ、さらなるうまうまを目指しております。