歩き遍路の話33 難所といわれる山道は身体より心がつらかった
またちょっとお久しぶりです。
ついこの間note書いたと思ったら、いつの間にか時間が経ってしまっている私です。
今日は歩き遍路の話の続き、「遍路ころがし」と呼ばれる難所である12番札所・焼山寺に臨むところからを書きます。
一応、初めて私のnoteを読んでくださる方向けに、私の歩き遍路の概要を簡単に説明します。
私は四国の右下の尖がった岬がある、高知県室戸市出身です。なので、通常の遍路は本州から明石海峡大橋を渡ったところの徳島県鳴門市にある1番札所からスタートし、四国を時計回りにまわって、香川県にある88番札所がゴールになるのです(※注釈)が、私の場合はわざわざ徳島の端まで行くのも大変だったので、地元・高知県室戸市にある24番札所からスタートすることにしたのです。
※88番までが終わるとそのあと和歌山県の高野山に行く人も多い。また四国遍路自体にも「逆打ち」というまわり方もあったり、まわり方は様々で自由だが、ここでは基本の例を挙げた。
で、そんな24番からスタートした私は、高知県の左下の岬・足摺岬や愛媛県を無事ぐるっと歩き、そして香川県も歩き終え、今書いているのは徳島県に入ったところの記録です。
もし興味がわけば、初めの記事から読んでいただけると嬉しいです。マガジンとしても歩き遍路の話をまとめています。
では、説明が長くなりましたが、今日の内容に入っていきます。
11月17日
歩いた距離、約30キロ。
旅館吉野~12番札所・焼山寺~民宿つじ。
焼山寺は「遍路ころがし」と呼ばれる難所で、遍路をしたことがある知人や、道中に出会うお遍路さんの話にも「焼山寺が一番きつかった」と聞いていたので、私はずっとビビっていた。
結論から言うと、正直そこまでつらくなかった。
ビビりすぎて、拍子抜け。
多分、通常歩き遍路は1番からスタートして、だいたい遍路3日目に焼山寺に当たる。3日目というのは、足がまだ歩き慣れていない時期だ。そんなときにこの山道に登らなければいけないから、余計つらいのだろう。
けれど私は遍路ももう終盤。横峰寺も、雲辺寺も登っていたし、これまで1000キロくらい歩いてきたから、もう脚が歩く脚になっていたのだ。だからそこまでつらくなかったのだと思う。
横峰寺のほうがつらかった。あれは、ほんとに泣きたかったし、進んでも進んでも寺に着かないような感覚だった。
さて、旅館吉野では、朝食とは別に、追加料金でおにぎりを持たせてくれる。ここから先は山なので店はないから有り難い。
朝6時50分に宿を出発した。
昨日一緒になったルーマニア人の男の子ミルチャも一緒に歩く。
私はさくさく歩きたかったのだけど、ミルチャは足を痛めていた。というのも、彼のザックを背負わせてもらったが、重すぎて持ち上がらなかったから、多分その重さのせいだろう。私のザックはだいたい5キロ。彼のは10キロオーバー。
外国から遍路に来る人たちは、どうやら荷物をパッキングするときにあれもこれもと入れてくるんだろうなと思った。私たちは現地に住んでいるから、足りないものは買えばいいし、不要なものは気軽に家に送り返せるけど、外国から来る人たちはそうはいかないんだろう。
実際、歩き遍路を始めて数日で、不要だと判断したものを捨てたり、宿に置いてきたり、宿の人に捨ててと頼んだり、という外国人がたまにいるのだと聞いた。
そんな重いザックを背負って足を痛めているミルチャと共に、彼のペースに合わせて歩く。多分自分のペースで行くと昼前には寺に着いたんじゃないかと思うが、実際に寺に着いたのは13時だった。
それでも、今回は彼と一緒に歩いてよかったと思った出来事がひとつあった。
とても嫌だったこともあったけど。それも後ほど書きます。
焼山寺までの山道は、これまで歩いてきた山道よりも、かなり歩きやすかった。
遍路始めのほうなので、整備がきれいにされているのだろう。これまで歩いてきた道は、道なき道もあったし、台風直後で何カ所も崩れている危険な道もたくさんあった。
山道に限らず、歩道がない道路など、いろんな道を歩く度に思ったのは、ボランティアで遍路道を整備してくださる四国内各地の地元の方々がいるからこそ、私たちはこうやって安心して(それでも安心はできないのだけど)歩き遍路が続けられるのだ、ということ。
山の遍路道の整備をしていて、斜面から落ちて亡くなった方もいると聞いた。そりゃあり得るよなぁ、と険しい山道を歩きながら考える。私がここでひとり足を滑らせて落ちて、きっと誰も気づいてくれないまま死んだりすることもあるよなぁ。と想像しながら歩く日々だった。
ミルチャと話しながら山道を登っていた。彼は遍路が持つ「金剛杖」に熊よけの鈴をつけていた。
私は鈴の音が耳に障って好きではないので、自分の杖にはつけていなかったが、この山では「熊出没注意」の看板が立っていたので、彼の鈴の音があって少し安心していた。
けれどある場所に差し掛かったとき、上のほうで、ガサガサと音がした。
私は呑気に話していたのだけど、ミルチャが先にそれに気が付き、私に「しーっ」と人差し指を立てる。え?!と思った声をひそめると、確かにこれから私たちが通る上の方の道で、ガサガサと草が動いている。
道中、イノシシや鹿や猿に遭うことは何度もあった。猿はそこまで逃げないし頭も良いので少し怖いが、イノシシと鹿はすぐに逃げてくれる。
今回もまぁイノシシだろうと思って、ミルチャが杖の鈴を鳴らす。念のため私たちは静かに後ずさりをしながら、そのまま何度か鈴を鳴らすが、ガサガサは止まらない。
そのとき、草の隙間から黒い影が見えた。
はっとした。
あれ、イノシシじゃなくね??
はっきりとは見えなかったので分からないが、黒い影は、イノシシよりも大きくて、ゆっくり動いていた。見慣れているイノシシの動きではないようだった。何よりイノシシだったら、鈴の音ですぐに逃げるだろう。
ミルチャもその違和感を感じたらしく、二人で顔を見合わせて、ゆっくり後ずさりして、十分離れたと思ったところで、くるりと振り返って来た道を早足で戻った。
少し下の開けた場所で彼と「あれ多分熊だったよね?!」と焦って話をしながら、少し時間をつぶした。心臓のドキドキが止まらない。
忘れたけど、30分くらいそこで時間をつぶしてから、もう大丈夫かな、と恐る恐る二人で再び道を登っていった。
私はずっとビクビクしてたのだが、無事、熊にも他の獣にも出遭わずに、山を抜けることができた。
結局何の動物だったのかははっきりと分からないが、私はこれが少しトラウマになっている。遍路が終わって以降、「またそのうち遍路したいな」と考えることがたびたびあるが、この恐怖が蘇ってきて、「でも熊に遭いたくないな…」と考えてしまう。まぁ、歩き遍路をしてる人で実際熊に遭った人ってそんなにいないから大丈夫だとは思うんだけど。(もしいたらコメントで教えてください)
このことがあったので、ミルチャと一緒に歩いていてよかったなと思った。私一人だったら完全にパニックだし、恐怖でそのあと一歩も前に進めなくなっていたんじゃないかと思う。
この後どういう道をどれくらい歩いたかまったく覚えてないが、やっと焼山寺に着いた。
ペースが違うとじれったいし、ストレスにもなるけど、熊(?)との出遭いがあったので、この日は一人じゃなくてよかったな。
山から下りる道でも、ミルチャといろんな話をした。とは言っても、私はそもそも記憶力があまりよくないので(というか記憶にムラがある)細かいことは覚えていないが。
仕事は何をしているのか?どうして歩き遍路をしているのか?など。
彼は私と同い年くらい(少し下だったか?)で、ヨーロッパでバリバリ働いているようだった。何やら大きいイベントの企画をしたりもしてるようだった。よく分からんかったけど。
私はというと、歩き遍路をしていたこの頃(27歳)は、大阪で写真を頑張ろうと思っていたものの都会に疲れて、西表島や熊本の山に移り住み、その後こうして歩き遍路を始めたものの、この先どうしようかと途方に暮れていた頃だった。
それで彼に将来のビジョンなどを訊かれるも、「したいことはある気がするけど…」「まだ考えててハッキリしない…」みたいなことを自信なさげに答えたような記憶がある。
というか、確か私としては、なんとなくやりたいことや方向性はあるが、まだ「こう!」と言葉で言い表せるほどはっきりしていなくて、しかも英語での会話なので余計口ごもるわけだ。
自信なさげにしていたのも、もちろん当時の私は自信なんかないのだけど、それでもやりたいことはやってきた自負は一応あったので、めちゃくちゃマイナス思考なわけでもないし「私なんか…」みたいに考えていたわけでもない。ただそれを自信満々に表現する性格ではないだけだ。(今ではそれが損してる態度だなとは思うので、もう少しハッタリかまして堂々としてればいいと思うようになったけど)
だからつまり、もやもやしてる自分の考えを、英語ではっきりと言い表すことができなかった。(でもそれって矛盾してるし、実際かなり難しいと思うわけ)
そんな私に対して彼は「でも君は女性一人でここまで遍路を歩いてきたから強いじゃないか!なんでそんなに自信がないんだ!!」と言う。私のもっとはっきりした言葉を求めてくる。もちろんそれが欧州の文化だということは分かるし、私もはっきり意見が言える人でありたいし、なりたい。
でもこのときは、もうこれ以上追及しないでくれ…と思った。そもそも日本語でも言葉にならないものを英語で言い表せなかったし、そこまで親しくない人と自分の内面をさらけ出して話そうとも思わない。正直、めんどくさかった。
昔の私は非常に人見知りだったけど、今は人見知りではない。一人旅をしたりいろんな場所に住んだら、新しい人とたくさん知り合うので、初めての人との会話も(よほど合わないと感じる人以外は)普通にできる。しかしだからといって、そんな会ったばかりの人たちに対して自分の内面をさらけ出したいはずもなく、嘘はつかないまでも、ある程度当たり障りのない会話しか私はしたくない。
それなのにこの人は、めちゃくちゃ訊いてくる。マシンガントークのように自分の意見を述べ、そして私の意見を求めてくる。もちろん欧米ではそれが当然なのだろう。そして仕事だとかそういうことが必要な場面ならば、私も頑張りたいとは思う。けど、今この話題については、もうこれ以上話したくない。
そう思ったので、私はついに、目に悔し涙を溜めながら言った。
I don't wanna talk any more.(もうこれ以上話したくない)
そこから静かになった。
私たちは無言で歩き続けた。
この会話が、ミルチャとの会話が、とてもつらかったことを覚えている。話したくないとか言ってごめん、と思いながらも、やっぱり話したくない。
自分の弱さを感じながら、半分ミルチャに怒りを感じながら、歩き続けた。
もし遍路をしていなくて、普通の生活や普通の旅行で彼と会ったならば、きっとこんな会話はしないのだろう。だからサラリと仲良くなり、サラリと別れ、なんとなくSNSでつながる。それは別に悪いことではない。楽だし、楽しいと思う。SNSでつながっていることで、そのまま数年後に別の縁でつながり直すことだってある。それはSNSの良いところ。
歩き遍路をしているからこそ、できる会話があるのだろう。それが「なぜ遍路をしているか」であり「人生とは何か」であったりする。
多くのお遍路さんは実際に、この話題をよく振ってくる。
けれど私は、親しくない人にこんな自分の話をしたくないのだ。
こういう話題は好きだが、友人とならいい。あるいはこのnoteみたいに、顔が見えない人に向けて書くのもいい。けど実際会った人誰でもに、こういう話はしたいと思わない。めんどくさいのだ。そして私は心も身体もパーソナルスペースが広い(バリアか広いイメージ)人間だと自覚している。(なのになんでnoteには書けるのか?という疑問が今浮かんだが、それはまた今度考えたいと思う)
しばらくして、やっとミルチャと話をする気になった。今日の宿の話になった。
今日はもう彼と同じ宿には泊まりたくない。
多分そのことは彼も感じ取っていただろうし、彼自身もそう思っていたかもしれない。
集落に出て最初にあった宿に、彼は飛び込みで今日泊まれるか?と尋ねた。正確には、宿のおばあちゃんに私が通訳して尋ねたのだが。そして無事泊まれるし、食事も付くということだったので、彼はそのままそこで本日の遍路終了。
また明日以降も会うかもしれないし、これも縁だから、SNSは一応繋がって、その日はハグをして別れた。
私はその後、何キロ先だったか忘れたが、予定していた神山温泉のすぐそばの民宿まで歩いた。
今回とても長くなってしまいました。読んでくださった方々、ありがとうございます。
愛媛・久万高原での民宿のときも思ったけど、歩き遍路というのは「他人という鏡を通して自分と向き合う」ことだなぁとつくづく思います。
他人や、自分をとりまく状況(=環境)に対して、色々な感情が湧き上がってくるけれど、それってよくよく考えれば、自分の中に潜んでいたものが他人とのやりとりを通じて見えてきているだけで、ひいては自分の問題なわけです。
それって、少し話が逸れるけれども、私が現在パートナーと一緒に暮らしている中で見えてくるあらゆる不満・ケンカ・すれ違いも同じ話だな、と思う。
私の中の許容範囲を超えていること・私の常識の外にあることが、他人とのやりとりと通じて、不満や怒りや悲しみとして自分に表れてくる。だからそれらの感情ととことん向き合うことは、自分の思考を拡げてくれることにつながる。
そのときはつらいけども、これは私が乗り越えるべき試練・壁なのだ、と思えるようになったのは、歩き遍路をしたからかもしれない。
と、書いている今はそう思えるけれども、歩いているこのときはほんとにただただつらいわけで、こんな態度とってごめん、とミルチャに対して一応は思いながらも、やはりこの日はもやもやしながら寝床につくわけです。温泉はとても有難かった。
そんな感じで今日の投稿を締めくくりたいと思います。
また次回も読んでくださいね!
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