ネパールいろいろ(4)ビムラの家でチャイをいただく
(物乞いのビムラと知り合い、お茶に誘われました。前回の続きです)
「じゃあ、行きましょう。」
とビムラは私たちの先を歩き始めた。人でごった返す道を赤ちゃんを片腕に抱きながらすいすいと進んでいく。ストゥーパ脇には交通量の多い大きな道が通っているのだが、走りかう車の間をビムラはいとも簡単に横断する。交通の切れるタイミングを見計ってなかなか道を渡れなかった私たちは着いて行くのに必死。
賑やかな通りの裏には住宅が建ち並び、そこをさらに過ぎると急にだだっ広い原っぱに出てきた。
そして広場の一角に連立する、、、テント?
「こっちよ」と指さすビムラ。
これまで通り抜けてきた住宅街と様子が一変。掘立て小屋なのか、簡易テントなのか、なんと表現して良いのか分からないこの集落。
外国人観光客が入ってくることなど無いのであろう。住人たちの視線が気になるが、彼らもきっと驚いたに違いない。ビムラは彼らと挨拶を交わしながらさらに進む。
もうこの状態で、とんでもないところに来てしまった感で一杯だったのだが、もう引き返せない。ビムラは隣人に何を説明しているのだろう、何かヤバいことにならないかしら、と申し訳ないが、疑わずにいられない。
ビムラの家はこのテントの中のひとつだった。
表に出さないように努力したが、心の中は完全に動揺していて、家の中の写真を撮る余裕もなかった。夫もそうだったのか、彼のカメラにもあまり写真が残っていない。いや、むしろ写真をバチバチ撮るのは失礼な気がした。これは見世物ではない。
住まいは竹で組まれた簡素な枠にビニールシートが掛けられているだけなのだ。ベッドのような、長椅子のような、すこし高くなったところに布団が山積みになっている。夜は寒かろうと思う。しっかりとした壁に囲われたゲストハウスで凍える自分がバカバカしく思えるぐらいだ。
竹細工でできた小さな椅子をすすめられてそこに座る。話をしながら小さな焚火のような釜戸でミルクを沸かし、チャイを淹れてくれた。その時はお腹壊さないか正直心配で、あまり味も覚えていないけど。
そうして私はずっと疑いを捨てられなかったのにもかかわらず、ビムラは私たちのことをある意味で信用してくれたのかもしれない。彼女にとって私たちは、物乞いを冷やかすだけの外国人、ではなかった。あの「仕事」をしていると、日常的に外国人から酷い言葉もかけられているに違いない。辛いことも多いに違いない。普通に話しかける「変な外国人」に少し心を開いてくれたのはビムラの方だった。こういう生活をしている人もいるのよ、と知ってもらいたかったのかもしれない。
別れる前、夫がビムラに何か欲しい物があるか尋ねた。お金は必要か、と遠回しに言った。ビムラの答えは
「お金はもらえない。でもお米を買ってもらえると嬉しい。ここに住んでる人たちと分けられるから」
だった。後日お米を届けることを約束し、そしてもうひとつ、夫が写真をプレゼントすることにした。ビムラの家族写真をストゥーパ脇の写真屋さんで拡大してプリントし、ビムラと言う女性が後で取りに来る、と写真屋さんに伝えておいた。
ビムラにお茶のお礼を言って帰路についた。「すごかったね。」とそれぐらいしか言葉が出ずに、色々な思いで頭いっぱいになりながら夕暮れの中歩いたことを覚えている。
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ネパール行きのきっかけとなったのはこの方、Kancha Sherpaさんでした。
彼を主人公にした映画の製作がそもそも全ての始まりです。
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”Kancha Sherpa
1953年エヴェレスト山 人類初登頂をサポートした最後の生き残り”
トレイラーはこちらから↓
https://lastofthefirst.net/index.html
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