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開発学を学ぶ - エピソードゼロ -

カンボジアの大学院に開発学を学びに来たわたしですが、そもそも日本史の教師になりたかったので大学では文学部史学地理学科で日本史を専攻したくせになぜか化粧品メーカーに就職したり、転職して編集記者をやったり。40歳を過ぎてどうしてそんなことになったのか。自分でもなんでだっけ? と思うことがあるので、ちょっと巻き戻してみたいと思います。

外国には縁がないと思っていた英語嫌い

小さな村の小学生のころからいわゆる”勉強ができる”田舎の子どもだったわたしが、高校時代死ぬほど苦手としたのが、英語。妙な日本史オタクだったので、大学に行って日本史を勉強して日本史の教師になるんだから、わたしの人生に英語は要らん! と豪語していたのです。日本史や国語は学年トップクラスなのに英語は100位以下というアンバランス人間は、皮肉なことに、大学入試で英語ができなかったがために志望する史学科には不合格。予備校に通いながら1年間入試のための英語を勉強せざるを得ないことになってしまうのです。
村を出て東京の大学に進学すると、急に世界が広がりました。クラスに帰国子女がいたり、海外留学をする先輩の影響で突如やってきた外国へ行ってみたいという憧れ。大学2年の夏休み、親友との初めての海外旅行は、中国の内モンゴル自治区。結局英語は不要でしたが、第二外国語で専攻していた中国語が役立ち、日本語以外の言葉が通じることに感激したことを覚えています。
卒業旅行のフランスで触れた異国情緒に浮かれポンチとなり、外国へ行ってみたいから住んでみたいに変わりました。

ニュージーランドで暮らすことに

教育実習に行き教員免許も取ったのに、23歳でサラリとサラリーマンになりました。実習先で知り合った同い年の新人教師の言動にムカついたのと、就職活動というものをやってみて、「10年くらい社会経験を積んでから教師になるという道もある」と思ったのです。結果的に、32歳のとき満を辞して教員採用試験を受け、筆記は通ったものの面接で散々ひどい目にあったという後日談付きですが。申し訳ないけど、あの埼玉県教育委員会との面接は、二度と日本の公教育には携わらないと心に誓った日になりました。
新卒で就職した化粧品メーカーが面白すぎました。陽気な先輩たちに背中を押され、3年働いたところで貯金もできたので、兼ねてから考えていた”外国に住んでみる”を実行に移すことに。特に勉強したいことはなかったので、ボランティアを選択。インターナショナルインターンシッププログラムスの中の教員免許所有者が応募できる「外国で日本文化を教える」というプログラムで、ニュージーランドの小学校に9カ月間派遣されました。
基本的に外国人のいない地域の学校で活動、というもので9カ月の間に3か所の小学校で働きました。ニュージーランドの田舎暮らしが刺激的で、この9カ月でわたしはすっかり外国びいきと化したのです。

LとRの発音が区別できないオンナ

外国びいきとなったわたしは、痛感したのです。”英語ができないとこれからの人生面白くない”。英語ができないことで何度後ろ頭を殴られたようなショックを受けたことか。「マクドナルド」も「ハンバーガー」も中学高校で習った発音は一切通用せず、26歳にもなってハンバーガーひとつ注文できない自分に落ち込んだり。「Ryan(ライアン)」という子どもをわたしが「Lyan」という発音で呼んでいたがために彼が友だちから「ライオン」とからかわれて申し訳なくなったり。LとRの発音もできないで外国に居ようなんてバカだった、と気付かされただけでも、9カ月間という時間が有意義でした。
おかげで、帰国してから英語を猛勉強する英語ガリ勉オンナになったのです。わたしが今、英語で仕事をしたり、大学院で英語で授業を受けたりできるのは、ハンバーガーで痛い目にあったからだと思っています。ありがとうマクドナルド。

それから、ニュージーランドでのある出会いがきっかけで編集記者という職業に転職することになるのですが、それはまた別のエピソードで。
なかなか大学院まで行きつきませんが、ちょっと長く生きているのでいたしかたありませんね。


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