見出し画像

発光するサンゴ

 電気を消し忘れてしまったのかと思った。けどそれは天井に張り付いた円からではなく、窓際の方からだった。月にしてはひどく遠慮がちで、まるで自分が発光しているのではないとでも言いたげなかよわさで、近よると、きのうの夜に持ち帰ったサンゴだった。
 ふれるとその光は電池が消耗されていくみたいに、ゆるやかに止んだ。
 帰りの車のなかで、サンゴを拾ったんだと、助手席でくたびれているおかあさんに手をのばして差し出すと、「それ、違法なのよ」とだけ言って、ふたたび前へと視線をもどした。
「だいじょうぶかな」
「ひみつにしておけばいいさ」
 おとうさんがあくびの合間に言ったから、ぼくはそれをポケットにもどして、眠っている間に着いていた家にうつらうつらと入り、手を洗ってから窓際の勉強机に置いておいたのだった。
「かえりたい?」
 光によって何かを伝えられた気がして、思わず口に出していた。悪いことーーサンゴを持ち帰ってしまったという――意識と、ちっぽけな孤独――だれにも話せない「ひみつ」であるという――心細さでゆれていた。でこぼこした表面をなぞる。見た目に反してすべすべとしていて、さわっていると気持ちがよかった。
「ううん」
 返ってくるはずのなかった返事。それがいま手のひらにあるサンゴからに違いないというのを、直感で理解した。驚くのと同時に、周りを見渡す。部屋はまっ暗で、部屋のそとではおとうさんが観ているであろうテレビの音が、かすかに漏れ聞こえているだけだった。
「わたしよ。ねえ、ひかっていたでしょう」
「ううん」
「なあに?」
「だれかにきかれていないかと思って。きかれたら、うばわれてしまうかもしれない」
「その突飛な想像力は相変わらずなのね。でも大丈夫。誰にもきこえないよ。わたしたちは交信しているの」
「交信? 脳に直接ってこと?」
 ぼくは周りをもう一度たしかめておきたくてぐるっと見渡したけれど、やっぱりだれもいなかった。
「ちょっと違う。だって、サンゴとヒトが同じ言葉をつかうわけないでしょ? わたしたちは意思のやり取りをしているの。それは言葉になる元のものだから、翻訳が要らないの」
「でも。ぼくはしゃべっているよ」
「あなたの言葉は理解できない、でも、言葉を発するのと同時に意思も漏れているから、分かる。つまり、しゃべらなくてもいいの。ちょっとコツがいるけどね」
 むずかしくてよくわからなかった。そして、このサンゴはもうひかっていないのにぼくは部屋の電気をつけていないままだったことに気づいた。気づいたけど、何かを変えると、それで夢から覚めてしまうみたいにしてこのサンゴと話せなくなりそうで、右手にサンゴをのせたまま、ただベッドに腰をおろすだけにした。
「ねえ、天気もいいみたいだし、散歩に行こうよ。そろそろ満月だとおもうの」
「いまから? ダメだよ、おかあさんに怒られちゃう。それに、明日も学校だし」
 サンゴがため息でもつきたそうなほどガッカリしているのがわかった。散歩はぼくもすきだから、こんな時間に行くなんて、ちょっと魅力的ではあったけれど。
「せっかくこの間よりも早く会えたのに、早すぎるとこうなるのね……でもそんなこと、わたしたちに制御できないのよね」
「なんの話をしているの? ちっとも分からないよ」
 サンゴがぼくに向き直る。いや、実際には身動きひとつしていないのに、そうとしか思えないほど、サンゴがみえていた。
「あなたが忘れたものよ。でも大丈夫、思い出せなくて。そういう二択だったの。でも、約束まで忘れてヒトになってしまうのは、さすがに誤算だったなあ」
 サンゴはしばらく考え込むようにして口を閉ざした。どうやらぼくは何かの約束を忘れてしまったらしい。それにいくら思いをはせても思い出せないことは分かっていて、さっき満月と言っていたから、すぐそばのカーテンをひらいてあげた。月は見えなかったけれど、なるほどよく晴れた夜空だった。
「じゃあ、明日学校からあなたが帰ったら、お散歩デートするのは?」
 不思議だった。ぼくはまだデートなんてしたことがなかったのに、彼女とぼくとの間ではそれがぴったりだった。そう決まっていたみたいだった。さらに不思議なことに、それがまったく嫌じゃなくて、ぼくの身体も、ぼくも、ずっとそれを待っていた。
「うん、いいよ」
 それからおやすみの合図みたいに、ぼくと彼女はたがいに微笑み合った(ような気がした)。

 夏休みが明けても、夏はまだまだ明けなくて、直線的な日光が後頭部を焦がそうとするから、そこから熱が全身にまわる。汗で重みをつけたTシャツをぱたぱたゆるがせても、気休めになるかならないかだった。水筒の麦茶ももうおいしくない。
 家の鍵は閉っていた。おかあさんは買い物に行ったのかな。いや、月曜日はヨガの日だったっけ。靴をいそいで脱いで水筒を台所に置いて、一段飛ばしに二階の部屋へ上がる。
「おかえりなさい」
 ランドセルを勉強机にかけると、彼女はそうっと言った。
「ただいま、起きてたんだ」まだ、ぼくが朝にランドセルを背負ったときは眠っていた。死んでしまったのかと(あるいはあれは夢だったのかと)ちょっと思ったけれど、耳をすませていると寝言が聞こえたのだった(何ていってたのかはわからなかった)。
「今日はどんな一日だった?」
 宿題はすべて授業時間のうちに終わらせていたから、ランドセルの中身を明日の時間割に入れ替える。一気に何冊も片手で持ちあげると手首がいたかった。
「おかあさんみたいなことをきくんだね。それ、ほんとうにききたいの?」
「当たり前でしょ」ぴしゃり、と彼女はつめる。「いい一日になりますようにって、祈っているのよ。それだけで満たされてしまえるのよ、ぎゅうぎゅうにね」
 まちがえた、算数は明日もあるのに。それから、体操着も用意しなくちゃ。
「ふうん……ドッヂボールをしたよ。負けちゃったけどね。でも、けっこう最後の方までよけていたんだ」
「そう。明日は勝てるといいね」
 彼女はよそを向いていた。やっぱり興味なんてないんじゃんか。大人はみんなそう――と思いかけかけど、彼女が何歳なのか見当もつかなかった。あらためてランドセルの中身を点検して、蓋をかけて閉じる。あんなに大きく見えたランドセルも、くたびれてすこし頼りなかった。
「でかける?」
「うん! できれば、胸にポケットがある服に着替えてほしいの」
 一日に二枚も着るなんて……でもたしかに、いま着ているのは汗がもうすき間がないほどしみこんでいた。とはいえ、また汗をかくのだけど。
 ポケットがついているのはあったはずだった。でも今年はまだ着ていなくて、衣装ケースの奥からつまんで引っぱり出した。そうだった。すこし大きかったから、まだとっておいたのだった。
「これでいい?」
「そこにわたしを入れてくれれば完ペキね」
 机の上で寝そべっている彼女を持ちあげ、そうっと衝撃がなるべく起こらないようにポケットに落とした。それで左右が傾いて違和感があったけれど、べつに嫌ではなかった。すこし固い感触が胸にあたる。
 春に買ってもらった子ども用スマホと、家の鍵、それから三百円を足したジッパー式の財布をショルダーバッグに入れ、階段を下りて靴を履いていると、ドアがひらいた。
「あら、おかえりなさい。出かけるの?」
 おかあさんは着替えの入った大きめのバッグを肩にかけて、さっきのぼくみたいに汗をだくだくと流していた。
「うん。ちょっとあそんでくる」
「ケータイもった? 夕方までには帰ってくるのよ」
 はーい、と返事をのこして、ふたたび直射にさらされる。サンゴはたしか光合成をするはずだった。そうしたらふたりで自給自足ができちゃうのかな。気力さえ奪う太陽に見せつけるようにして、いつもより胸を張った。

「前世のことって、全くおぼえていない?」
 あなたの街が見たいの、と彼女が言ったから、もっともなじみのある通学路へ出た。さっき帰ってきたばかりだったから、同じ道なんてうんざりするのだろうなと思っていたのに、いつも目を向けないところばかりが目について違うにおいまでして、迷子になったときみたいな感覚があった。こわいけど、ひとりではない。
「前世ってなに?」
「いまあなたが生きている、その前の生きていたときのことよ。そのときはわたしもあなたも陸にいた。ここではなかったけど」
「ぼくはおぼえていないけど、きみはおぼえているんだね。しらないことがあるって、なんだかこわいな」
「そっか……いいの。そういう二択だったの。でもそれなら、わたしも忘れてしまえばよかった」
 どこか遠い目をしながら、彼女はたまに吹く心地いい風をかんじているふうだった。ぼくは暑さばかりに気を取られて、前髪がゆらされていることにいま気がついた。
「昨晩にも言ったけど、思い出せなくていいの。ほとんど不可能なことだし。それに、会えば自然とまた恋に落ちるって、信じていたから。あなたも、わたしも」
 道がひらけて、陽が全身にふりかかる。まぶしくて、目をほそめた。でも、まだまぶしい。
「よく、分からないよ」
「前世だってそう。まずわたしがあなたを見つけるの。そのためにサインを決めていたのだから」
 彼女はぐっと息を止めた。ぼくがそのサインさえも忘れてしまっていることも分かっているのだろう。そうやってぼくがなにもかも忘れてしまったから、かなしいのかな。
「発光するの」
 ふと辺りが暗くなる。その暗さで彼女を砂浜で発見したときのことがフラッシュバックしたけれど、ぼんやりとした印象でしか焼きつかない。
 もう日はとうにしずんでいて、すこしはなれた道路でならぶ外灯からとどくのと、月からの反射からしかないはずだった。すぐ足もとをはなれるとなにも見えなくて、まだ砂のうえにいるはずなのに海のうえに立っているみたいだった。そうやって浮いていると、奥のほうでひかっているのが見えた。すうっと、でもたしかに砂と貝殻の感触とともに、近さと遠さがわからないまま近づくと、とってもちいさいものが、まるで一生懸命にひかっていた。それはサンゴだった。
 打ち寄せる波の音さえ忘れていた。蛍光灯みたいな白だったのが、レモンみたいな黄、郵便ポストみたいな赤、かと思えば信号みたいな黄、と移ろい、なにも見えないほど深い紺がいっそう鮮やかだった。別の光を反射しているのではなく、まちがいなく発光していた。その光線をたどって拾いあげると、ゆるやかに光はしずかになっていき、ついには止んでしまった。なつかしい感じがした。思い出そうとしてもそんな記憶はなかったけど。
 ふたたび日差しがふりそそぐ。暗くなっていたのは、ただの雲の連なりだった。
「たしかに、あれは発光だった。それを見つけたのだった」
 そうよ、と彼女は得意げだった。なにもかも知っているのがうらやましかった。
「ここ、みんながよく行く駄菓子屋なんだ」
 ガラス戸は閉じられていた。奥には雑多な色が並んでいて、ちょっとごちゃごちゃしすぎている。これは彼女の知らない、ぼくが知っていることだった。
「みんなって、あなたは?」
「ぼくは行かないんだ。なんだかこわいし、それに、買い食いは禁止されているから」
「えらいのね。わたし、そういうところもすきよ」
 すき、と言われてまいってしまった。身体の内側で加速するのがわかった。なにが? こんなふうに内側がさわがしくなるのははじめてだった。わからなくて、まいってしまう。
「入ってみる?」
「いい。だって禁止されているのでしょう?」
 彼女がただしかった。それに閉じられたガラス戸を開くのも、引っ込んでいるおばさんを呼ぶために大声を出すのも、むかしから臆病すぎるぼくには到底できないことだった。
 うしろからとてとてとて、が聞こえて振り向くと、いつものネコが通りがかるところだった。じっと見つめるので、しゃがむとしばらく見つめ合ってからぐるりと回って寄ってきた。
「どうしたの」
「いつもアイサツするんだ。ノラのネコだと思うんだけど」
 ネコはすき? と彼女がひっそりきくから、ぼくもうん、とちいさくこたえた。ネコはようやくぼくのもとへたどりつき、垂らしているぼくの指に鼻先をこつんとした。
「そこは変わってないんだ。わたしたちね、禁断の愛だったのよ」
 ぼくがまだ子どもだった頃、ぼくを寝かしつけるときのおかあさんみたいな声色だった。でも、それが昔話というのは同じなのかもしれない。
「禁断?」
 禁断というと、王様と貧民とか、仲の悪い家どうしとか、あとは血が繋がっているとか……?
「そう、あなたがイヌで、わたしがネコ」
 おかしそうに彼女は言った。それが禁断なのかどうかはともかく、ぼくも彼女も人間ではなかったことがショックで、こわばった指にびっくりしたネコはすばしっこく去っていった。
「それって禁断なの…仲のよさそうなのを、テレビで観たことがあるよ」
「それとは別。友情ではなくて、わたしたちのそれはできすぎていたくらいに自然に恋に落ちて、愛にふれあっていたのだから。もちろん周りからは猛反対された、なかなか格式のある家柄だったし……それでね、わたしたち、カケオチしたの」
 あんまりたのしそうに話すから、かえってその「カケオチ」について訊く気が起きなかった。はじめてなのにもう聞き飽きたような感じがするのは、彼女がそういう話し方をするからなのかな。その前世の話ばかりする彼女に、ちょっとうんざりしてきたのかもしれない。いまのぼく、を見てくれていない気がして。
「何を見ているの?」
「あれ、アンテナだよ――無駄なものがついてなくてすきなんだ」何も見ていなかったのをごまかしたくて、その視界の先にあったアンテナにピントを合わせる。
「ほんとう。宙を泳ぐ魚みたい」
 思考まで読まれたのか、と思った。それはずっと前にぼくがおかあさんに言ったものだったから。でもぼくは、いまそれをきいて思い出したのだった。まさか同じことを考えるひとが――彼女はサンゴだけれど――いるなんて。
 日がだんだんと暮れていき、ずっと歩き回っていたけれど、目的地は決めてあった。ぼくの得意な教科と苦手な教科、中学にあがったらやりたい部活を話したり、彼女が海のなかでいちばんすきな時間帯や幼なじみについて聞いたりしているうちに、たどりついた。
「ここが、いつも遊ぶ公園だよ」
 すっかり日は落ちていて、友だちもだれもいなくて、不気味だった。
「遊ぶって、学校の友だちとよね。その、女の子はいる?」
「うん、けっこう別々だけど、たまに一緒に鬼ごっことかはするかな」
「そのコのこと、すき?」
 へんな感じだった。女子はいつも何人かでいるのに。それに、どうしてそんなことを訊くのかも分からない。
「きらいじゃないよ。たまに面倒なときがあるけどね」
「よかった」彼女は感情をまるきり露わにした。「前世でも散々嫉妬したんだから。でもいまのあなたは、まだまっさらなのね。ああよかった」
 なにをよろこんでいるのか、またしても分からなくて、でもそのうちにちょっとずつうれしくなった。ぜんぜん分からない。でもそれは可能性でしかなかった。




今まで一度も頂いたことがありません。それほどのものではないということでしょう。それだけに、パイオニアというのは偉大です。