自分とはいくらでも変えていける思い込み

長らく「書く」ことから遠ざかっていたのは
忙しくなったから、という理由だけではない。

書くほどに、どんどんそれを超えていく自分に気付く。
そして、幼稚なことを書いてしまったと悔やむ。
また書くことが怖くなる。

でも、それはそれで仕方がない。

人間は変化していく生きものなのだ。
変化に抗うことそのものが、不自然なのだ。

そうやって何度も立ち止まっては、
また歩き出す。


今日の本題はここから。

自分とは、、と考えた時に
「几帳面だ」とか「あわてんぼうだ」とか
「負けず嫌いだ」とか
たくさんの性格を思い浮かべる。

でも、本当にそれは真実なんだろうか?

きっとそれは真実の自分の姿ではなく
過去の経験から学んで作られた
思い込みの姿でしかないのだと思う。
親や先生から言われたことば、友人からの評価、
自分が自分で他人と比べて感じたこと、
そのどれもこれもが、
「誰かのフィルターを通して見た自分」であって
真実の自分をあるがままに映し出した姿ではないということ。

同じカレーでも、めちゃくちゃ辛いと感じる人もいれば
ぜんぜん辛さを感じない人もいる。
お笑い番組が大好きな人もいれば、すごく苦手な人もいる。
良かれと思ってしたことも、
親切だと感謝してくれる人もいれば、お節介だと嫌がる人もいる。
感覚や評価というのは、そもそも絶対的なものではないものだ。


あるとき、
【自分はどんな人か】と考えて、たくさん言葉を書き出してみたら
「几帳面なところがある」「おおざっぱ」
「争いごとはきらい」「競争心が強い」
「フットワークが軽い」「慎重」
などなど
ちょっと人格が壊れているんじゃないかと疑いそうになるくらい
相反する言葉が並んだ。
一つ言葉を書くごとに
いや、そうじゃないところもあるよな、と
真逆の面にも目を向けたから。

それで、私は私が思っているほど私じゃないことに気付いた。
私は○○だ、と思い込んでいるけれど
本当にほんとうにそうなのか?という問いが生まれた。
そうしたら、【そうじゃない自分】の可能性の世界がバンっと広がった。
自分の限界を自分で作っているということが腑に落ちた瞬間。

人前で話すのは苦手だと思っていたけど、話せるかもしれない。
聞き上手な方だと思っていたけど、聞けていないかもしれない。
気付けば、自分の幅を広げられる。

高い身長を低くはできないし、目の色を緑にも変えられないけど
自分が自分をどう思うかは自分次第でいくらでも変えられる。


そんなことをふと書いてみた、夏至の夜。

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