【かがみの孤城】で救われない過去の私へ

最近ハマっている「しいたけ占い」で、「魚座は宇宙人みたいで、『ふむふむ人はこういうことをすれば喜ぶのか』みたいなルールを人間界に学びにきてる節がある」みたいな文言を見た。まさに3月生まれ魚座の私である。

そんな例え話に全力で頷いてしまうほどに、小学生、中学生、高校生の人間関係でいい思い出がない。他人の感情が全く分からなかった。
今考えると面白いほどに人間関係の歯車が合わなかったように思う。

大学生の時、辻村深月さん「かがみの孤城」を読んで、本当に苦しくなった。私みたい、と、ページをめくる手が進まなかった。

社会人になった今、改めてもう一度読んでみようと思った。でもやっぱり、苦しかった。学生の頃何も上手くいかなかった私みたいだった。

感想、というより、「かがみの孤城」を読んで救われなかった人に向けて、そして私の記録として残そうと思う。


私は、どうやら幼稚園から少し変わった子だったらしい。大雨で誰も園庭に出ようとしない日、みんなが止めるのも厭わず1人でブランコを漕いでいたようだ。協調性の欠片もなかった。

小学生の頃は、今考えると少しだけどいじめられていたように思う。
今考えると、というのは、恥ずかしい話当時は一切気がついていなかった。

なんとなくグループには所属していたけれど、「少し変わった子」のレッテルを貼られてコソコソと笑われていた。
自分を曲げないこと、自分の意見を主張することを笑う人がいるなんて心の底から思っていなかった。
授業中、私がごんぎつねを読んだ感想を発言したことで、みんなに迷惑をかけただろうか。
でも多分それだけでコソコソとされることはないだろうから、きっと気にさわることをしてしまったんだと思う。それすらも時間が経ってから気がついた。

中学生の時、まさに歯車が合わなくなった。
初めて異性に告白された。その人はクラスの人気者で、かついつも人に囲まれている私の友人の好きな人だった。私も彼を気になっていたからその告白を受け入れたけれど、それはどうやら「酷いこと」だったらしい。

その少し前、親切なクラスメイトから「貴方に私の話を聞いてほしくない」と言われた。興味が無い話にも頷かなければいけないし、自分に全く関係のない人の相談事を無表情で聞いてはいけない、自分の意見はオブラートに包まなきゃいけない、そんなことを知った時にはもう手遅れだった。
周りを不快にさせないことを意識すればするほど、避けられるようになった。仲間はずれにされたくなくて、悪口を言う人にそれとなく同調していたら悪口を言われるようになった。
ああ、失敗したなと思った。

中学で学んで、高校で人の悪口を一切言わないことにした。悪口を言ってる子を止めもしないけれど、ニコニコとその場をやり過ごすことにした。そしたら、いつの間にか私がそのグループの悪口を言ったことになっていた。

噂の出処は例のよく悪口を言っている子だった。後からひとづてに聞いた話によると、志望大学が被ったからとのことだった。その子の成績は私より悪くて、推薦枠を取られると思ったから、だそうだ。これも今考えると他に理由はあったんだと思う。でも、火のないところに煙は立たないというのは嘘だなと思った。
ああ、また上手くいかなかった。
どうしてみんなは“普通に”色んな子と深く仲良くできるんだろうか。

一人ぼっちの休み時間は、ずっと本を読んでいた。


当時、世界の全ては学校だった。
一人で本を読む自分が恥ずかしくて、いたたまれなくて、他のクラスから見られたくなくて、開いていた教室のドアをお手洗いの帰りに閉めるようになった。

そんな価値観を変えたのは大学入学後だった。
入学前からTwitterのアカウントを作り「#春から○○」とかいうハッシュタグを使ってそれとなく同じ大学の人と交流するようにした。ネット上だったら多分上手く話が出来て、人間関係も上手くいくと思った。Twitterではすごく上手く色々な人と楽しく話せて、入学してから気を抜けないなと気を引き締めた。

4月、Twitterで出会った子達と会った。小中高の同じクラスから、同じ大学に行った子はいたけれど同じキャンパスの子はいなかった。

本当に文字通り心機一転した。私を知ってる人は誰もいない。みんなみたいに“普通に”なりたいと思った。

絶対悪口を言わないようにしよう。
ずっとニコニコしていよう。

でも、気張っていようと心に決めた学生生活は、すぐに終わりを迎えた。

気張らなくても、「沢山話ができて面白い」と言ってくれる友達ができたからだ。
昔から飽き性だったから、沢山趣味に手を出したおかげで色々な引き出しから色んな方向に話が出来た。

「絶対に私を否定しないから、安心して話ができる」と言われた。無意識に、人を否定しないようにしていた。多分自分を沢山否定されてきたから、誰かを否定しようなんて思ったことがなかった。

「沢山本を読んでてすごいね。おすすめの本を教えて」と言われた。初めてだった。沢山本を読んでいることは、決して恥ずかしいことじゃなかった。

魚座の私だけがまだお酒を飲めない19歳、もうお酒を飲める友達は、私に合わせてファミレスに行ってくれた。お酒の強要もせず、「20歳になったら絶対飲むよ!」と、ドリンクバーと辛味チキンで時間を過ごしてくれた。

他にも沢山沢山、嬉しい言葉を貰った。今まで何にも手に持っていなかったのに、綺麗な花みたいな言葉を1本ずつ、少しずつ貰って、気がついたら両手いっぱいに収まらないほどの花束みたいになっていた。

私が友達と胸を張って言えるのは、幼稚園の時に1人、小中高で合わせて3人、大学時代は両手に収まりきれないほどになった。


多分、あの時の私にこの本を渡しても届かなかった。
作中で「たかが学校のことなのにね」といえる東条さんは、とても大人なのだと思う。
閉鎖的な空間、1人でいるのが恥ずかしい時間、あの場所が特殊なだけだ。
過去の私はとても子どもで、東条さんの言葉を素直に受け入れられるような子ではなかった。

だってあの空間を、「たかが学校」と言いきれる私がいるのは、今だからだ。
あの閉ざされた空間で苦しんでいた私は、絶対に「たかが学校」と言えない。大きな声で「ここが全てだ」と叫ぶと思う。

私の現実に“オオカミさま”はいなかった。本を読んでいるくせに妙に冷めた子だったから、もし私が中学生の頃にこの本を手に入れたとしても、「もしかしたら」に縋れるような人間ではなかったように思う。


あの空間が世界の全てで、逃げ出せない場所だ。
だけれど、あの狭い世界で学んだことが後々絶対に自分の支えになる。

「時が解決してくれる」「環境が変われば」なんて陳腐な言葉しか言えないけれど、“オオカミさま”を待つ誰かに届けばいいと思った。

辻村深月【かがみの孤城】


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