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外国語と私

 夏休みにオーストラリアに行ってきた。前半は学会で後半は観光である。

 学会の使用言語は英語で、長文の英語を読み書きするのは実に30年ぶりくらいだった。観光地では出会った観光客と何度かおしゃべりしたけど、海外旅行をほとんどしたことのない私には、あまりない経験だった。

 長い間使うことはなかったとはいえ、英語はかつて受験のために本気で勉強していた期間がある。学会の準備をしていて文法や構文が蘇って来るのは、まるで久しぶりに自転車に乗るような感覚だった。一度は慣れ親しんだもので、自分の身体に深く刻まれ染みついて、完全に忘れ去ることはできないもの、そんな感覚があった。学会レベルの英語には程遠いんだけど。

 英語の次に私が習った外国語はドイツ語だ。大学に入学したとき私はドイツ文学を専攻するつもりだったので、ドイツ語を第1外国語にしたのである。けれど数年しか勉強しなかったため、あっという間に忘れてしまった。テレビでドイツ語が流れてきたとき、ドイツ語だと気付かなかったくらいである。それでも久しぶりに文法の本を開いてみると、あの自転車に乗るような感覚がかすかにあった。

 そしていま私が細々と勉強を続けているのは中国語だ。20代のころ勉強しようとして入門の段階で挫折した。40代のころ先生の中国の話を聞くのがメインのような気楽な会に通っていたけれど、先生が中国に帰ってしまった。そのまま中国語から遠のいたけど、50代からまた勉強を再開して、なんとかやめないでいる。

 外国語は習い始めたころから片言でしゃべれるようになるまでが一番楽しい。それはまるで、誰かに出会って恋人同士になるころまでの楽しさのようだ。強い情熱と好奇心に支えられて勉強する期間。相手の知らないところを知るたびに好きになっていく。

 しかし甘い恋人同士でいられる期間は長くは続かない。どんな相手であっても自分とは別の一人の人間だから、嫌なところが目に付いたり、受け入れがたい面があったりする。一生を共にする相手なら、そこで喧嘩をしたり話し合いをしたりして、諦めたり妥協したりしながら、徐々に相手を理解していき、長い期間を経て、家族と呼べる存在になっていくのだ。

 ちょっと会話ができるくらいまでではなく、長文のテキストにじっくり取り組んで勉強した外国語はそういう存在なのだと思う。楽しいだけではなく、ときには苦しい思いをしても付き合ってきた外国語は、自分の中に深い根を下ろしていて、長い期間離れていても完全に忘れ去ることはできないのだ。

 このように考えると、自分にとって英語は長年連れ添ってきたが別れてしまった相手であり、ドイツ語はハネムーンから帰ってきてすぐ離婚した相手である。そして20代、40代とちょっと習ったけど挫折して、50代からは細々とでも続いている中国語は、腐れ縁の本命だ。二人の人とは結婚できないけれど、英語と中国語は、たぶんこれからも一生付き合っていくことになるだろう。

ありがとうございます。