読むには読めても理解するには難い。

高原英理著「日々のきのこ」を楽しく読んだ。でも十分理解して読めたとは言い難い。
最初は現代劇で、山にはきのこがあり、特別なきのこや特別でもないきのこがあり、それを好み愛する人がいる話くらいに思っていた。
どうも社会自体がきのこによって大きく変わってる世界に見える。
きのこが人の大きく関わってる。余り関わってない人も居る。そんな世界。
この小説の世界観、宇宙観を理解するには、暗唱できるくらいに内容を覚えて常に思い出せるくらいにして、常に考える。これを何ヶ月かしてから出ないとわからない気がする。
そんななので、「読んだ。しかし理解からはほど遠い。」そういう認識で居る。

「わたしは女性だ。」と書かれていて「え?女性だったの?」と思った箇所もある。想像しながら読んだことが全然違っていて、違う筋にもっていかれて、物語が複線化したような気分にもなる。読み手の問題なのだけど、意図的にそうされてる気もする。

お?と思ったのはこのキノコの仕事をしてる女性が、仕事仲間と深い仲であり、数名と通じていること。山の中で出会う人にどうということもないものであっても交換しあって行き過ぎる。「渡しもの」の儀礼が有る。たぶん私有財産の感覚が薄いことの相互確認や、仲間意識の確認の意味もありそう。
それなのにその女性は小さな瓶に入った水に固執し、譲ることを拒み、肌身は出さず持ち歩くために秘所にいれる。このために交合できなくなると言う。他にもやりようが有るだろうし、そのまま入れたままでもできなくはないとも思うが「出来ない」ということになってる。
物理的に出来ないと考えていってるのか、出来ないものなのだという思い込みからのものなのかはわからない。
交合は「渡しもの」の一種としてのものなら、カプセルの水を絶対にあげたくないことと、交合をしないと決めてることは同じことをいっている。
違うルールで生きていくことを示している。
自分の我を通すことと私有するものがあること、これは他の人とは一線を画す態度。
人ときのこが融合しつつ社会を形成している山の人から、その人は逸脱し距離を取ろうとしている。
この辺が特に興味深かった。
徐々に近づいてフラットな関係ですいへーに活動してたのが、不意に変化して少しずれる。
どうやって近くなっていったんだろう。どうやって離れていくんだろう。そんな想像をしています。


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