『「坊っちゃん」の時代』―「真剣勝負」のもたらしたもの―
(2011.9 「谷口ジロー原画展」パンフレット原稿。オリジナルには漫画画像が掲載されていますが、これはテキストのみ)
『「坊っちゃん」の時代』という作品
谷口ジロー・関川夏央の『「坊ちゃん」の時代』は、夏目漱石や森鴎外ら文士たちを中心に据え、明治という時代に漫画という武器で切り込んでいった野心作である。「明治の文豪もの」という、困難なモチーフに果敢に挑んだこの『「坊ちゃん」の時代』は、2001年には第2回手塚治虫文化賞を受賞しており、作品として優れたものであることはいうまでもない。しかしそれ以上に重要なのは、二人の作家が「それぞれの方向性を見定めるうえで重要な転機となった作品」だということである。
谷口と関川のコンビは、この作品以前に、すでにユーモア・ハードボイルド『事件屋稼業』でヒットを飛ばしていた。関川はこれらの作品を、一般的な「原作つき漫画」ではなく、「共著」であると位置づけており、「どちらが主どちらが従ということはない。だが仕事の分け持ちはある」というスタイルであるという。その「分け持ち」とは、映画でいうならば、関川が脚本と編集を担当し、谷口が撮影と監督を担当する、というような、明確な役割分担のことを指す。このような形での作品作りは、いうまでもなく互いの「分け持ち」への誠実な取り組みへの信頼と敬意なしには不可能な方法である。現在では互いの目指す方向性がやや離れ、共著の機会は少なくなっているというが、このような2人の関係は、それぞれの創作活動の重要な基盤となっている。
この共著関係の集大成として、谷口と関川がそれまで以上の真剣勝負を繰り広げた作品と考えられるのが、最初に紹介した『「坊ちゃん」の時代』である。1985年から12年間、最終的には五部作にも及ぶ、長い長い真剣勝負の軌跡であると同時に、その結実ともいえる作品なのである。
「勝負」のかたち
この作品もまた、関川が構想した物語の大枠を谷口が画として表現し、谷口の画に沿って再度関川が台詞・構成を調整するというプロセスで制作されている。ただ、それまでと違い、関川の構想は、具体的な情景や登場人物の感情、ストーリー展開以上に、「明治という時代」を漫画として表現することに重きが置かれていた。このため谷口も、否応なく「時代」という目に見えないものを画として表現する方法を模索せざるを得なかったと思われる。脚本の批評性を直接表に出してしまえば、いわゆる「学習漫画」のような代物になりかねないし、一方、それを極力隠して表面的なドラマにまとめてしまえば、単なる時代物漫画になってしまう。通常以上に深く脚本を理解し、そこに書き込まれたものに自分なりの解釈を与えなければ的確な画にならないのだから、単に作品の形をまとえめるだけでも突出したバランス感覚と表現力が必要とされる。
しかも、先に述べたように、2人の「分け持ち」の関係からすれば、常に関川が全体のイニシアティブをとることになる。谷口としては、関川の「分け持ち」である物語の筋道を変えずに、いかにして画として返していくかが勝負、ということになる。とはいえ、抽象的、概念的な「明治という時代」を主人公とするこの物語を画として表現していくことは、いかに谷口が達者な描き手であろうとも、一筋縄ではいかない難題だったはずである。
第一部で夏目漱石という「キャラのたった」人物が据えられ、森田草平やら荒畑寒村やら、関川の明治観を端的に表す人物が配置されているのはせめてものハンディキャップだったのだろうが、関川は当初から、かなり硬質な批評性を含む物語を投げかけている。それは、「谷口ならなんとかするだろう」という信頼も込めた難題だったのだろう。
谷口も、その信頼と期待に、当初からよく応えている。たとえば、主人公格たる夏目漱石など、登場当初から、物語の示す人物像を超えた躍動感がみなぎっているように思われる(「呑めない酒を飲んで卓をひっくり返す文豪」を、皮肉やパロディ抜きで描写することなど、谷口以外の誰にできるだろうか)。
それでも、第二部『秋の舞姫』あたりまでは、まだほんのわずかに、ぎこちない感じが漂っている。この段階ではまだ、どちらかといえば脚本が作品を牽引している印象があり、漫画としてはほんの少し「硬い」印象を受ける。
ただし、この「硬さ」は、第三部『かの蒼空に』の中盤以降、急激に影を潜めていく。それはあたかも、単に難問に正確に応えるのみではなく、画を通じて、物語の側に反問を加え始めたかのような印象である。
特に、関川の脚本がやや重くなってしまった第四部『明治流星雨』などは、谷口の描く幸徳秋水や中江兆民たちの表情や仕草によって、この作品の生命線が維持されている印象すらある。ここでは、画が物語に拮抗しているというより、画が物語を牽引しているのである。
「啄木」像の変化
このような「画」と「物語」の関係の変化は、たとえば、主要登場人物である石川啄木の人物造形の変遷から、具体的に見てとることが出来るだろう。
石川啄木は、第一部から第五部まで、すべての作品に顔を出している。最初に現れた啄木は、肖像写真をモデルにしたのか、非常に神経質そうな、病的なイメージすら漂う顔立ちに描かれている。
物語に登場するのは、第二部『秋の舞姫』での、二葉亭四迷の葬儀のシーンであるが、ここではまだ前掲のイメージが踏襲されている。うつむいた気弱そうな姿からは、啄木の人物像はあまりはっきりとは伝わってこない。この段階ではまだ、啄木がこの物語の中でどのような役割を演じていくのか、またどんな人物なのかが明確ではなかったため、いかにも「文学青年的な人物」の姿かたちを与えたのだろう。
第三部『かの蒼空に』の序盤、主人公として登場したあたりから、啄木の姿は大きく変化していく。全体的な姿形こそ、初期と同じく肖像写真を元にしているが、ここからの啄木は、自意識過剰で酒にも女にもだらしなく、借金まみれでありながら、悲哀というより晴朗ささえ感じさせる姿で描かれはじめるのである。教科書的な石川啄木評価しか知らない読者は、破天荒な行動におどろき呆れつつも、一種不思議な柔らかさやユーモラスさに導かれて、寂しくも優しい感覚を呼び覚まされることになる。これは谷口の画に、啄木を単なる生活破綻者と思わせない説得力が強く宿っているためである。
そしてそれこそが、谷口ジローが関川夏央の示す物語を正面から受けとめてしっかりと消化し、谷口自身の石川啄木観を表現していることを示している。それは、「少年のような大人」としての啄木である。
しかも、谷口の描く啄木は、話が進むごとにさらに年少化していき、ついにはまるで「子供」のような姿になってしまう。『秋の舞姫』で描かれた二葉亭四迷の葬儀と同じシーンであるが、比較すればまるで別人のようである。これは、谷口ジロー自身の啄木観の確立を示している。
その結果、啄木は関川の物語の批評性に、作中で最も深く入り込み、介入していくキャラクターとなっている。夏目漱石が、関川が構想した大枠としての「明治という時代」をストレートに表現する人物であるとすれば、啄木はそこに違った角度から「ツッコミ」を入れる人物である。画の側から物語の側への反論、と言っても良いだろう。
だからこそ、最終巻『不機嫌亭漱石』における狂言回しという最も重要な役回りは、他ならぬ石川啄木に与えられているのである。
漱石の夢の中と思しき世界で、啄木は読者と漱石を導く「野だいこ」の役割を与えられている。ここでの啄木は、時に滑稽に、時に鋭く、しかし距離感をもって、ともすれば独善的な思考に陥ったり道に迷ったりしがちな漱石を導く、トリックスターである。
このような啄木の位置づけは、画自体に物語と拮抗する力がなければ、陳腐なものになりかねない、危険なものである。谷口自身が明確な理解のもとに示した啄木の画があって、初めて成立する手法ともいえる。いわば画による批評が物語の批評性を裏付けている形であり、これこそが、一般的な歴史漫画や学習漫画には見られない、本作のぬきんでた特徴であるといえよう。
「画の力」による批評的表現
啄木の人物造形は最も端的な例だが、画が物語の批評性を導き出している場面は、他にも枚挙のいとまがない。
たとえば、漱石は作中コミカルに、あるいは情けない姿が描かれることも多いが、同時に文豪としての偉大さも、きちんと表現されている。しかもそれは、台詞や物語によってというよりも、やはり画によるものである。森田草平の視点からみた書斎の漱石の姿は、部屋の調度品や床に置かれた資料、胡座をかく漱石の姿がデフォルメされた遠近法を用いて「本尊」のように描かれ、草平たち弟子と漱石の関係を画として示している。
このような「画による批評的表現」は、この作品の随所で試みられているが、最終巻『不機嫌亭漱石』では、その到達点が示されている。啄木をナビゲーターとして入り込んでいく漱石の世界として、「明治という時代」(に対する谷口・関川の理解)そのものが、画によって表現されている。
たとえば、山県有朋と伊集院影韶の登場する電車の車中のくだりなど、非常に印象的である。つり革につかまって立ったまま、漱石は、同じ穴の狢と思しき二人と向き合う。しかし、山県と伊集院は、離れた席に並んで座り、向き合うことなく横目で互いを見ながら漱石と話をしている。第四部『明治流星雨』では直接的に示されていた、維新の元勲山県と明治のエリート官僚伊集院の同床異夢の関係性、さらにはそれを眺める漱石の立ち位置を示す画面は、紛れもなく「明治という時代」を、皮膚感覚のレベルで伝えている。
松山の中学校の職員室のシーンもまた、圧巻といえる。規則正しく並んだ規格品の事務机、そこに現れる強い個性の持ち主たち。事務机という小さな宇宙が並び、正岡子規など強い個性の主たちが跋扈しているが、漱石の姿は誰にも見えない。やがてトリックスターたる啄木の姿さえ消えた無人の職員室で、「漱石の猫」と漱石が向き合う。このとき漱石が口にする「この寛闊無邊…この光年の孤絶……この縹渺として淋しい安らぎ…」という言葉がリアリティを持ちうるのは、物語の力である以上に、その部屋の空気感までも描き込んだ、画の力であろう。
『「坊っちゃん」の時代』の作品的位置づけ
『「坊っちゃん」の時代』シリーズにおいては、第三部『かの蒼空に』を明確な転機として、後半からクライマックスにかけて、物語と画の力は拮抗し、時に画が物語の重要な局面を駆動する形になっている。これは、谷口と関川の真剣勝負の経過―関川の投げかけた難題に谷口が真摯に取り組み、「画による批評」を実現していったこと、そして物語の側がそれを受け入れていったこと―を示している。
そしてその結果、このシリーズは、多くの歴史漫画や学習漫画とは一線を画す(ある意味では読み手を選ぶ)、特異な作品となった。
谷口ジローはこの作品を通じて「画で批評する(概念を表現する)」技術を磨き、反対に関川夏央は「文学作品をその作品の時代性や人間性の水準で捉えなおす」という批評家としての基本的な方向性を磨いたと思われるのである。
おそらくそれは、「(画と物語の複合体である)漫画による批評」という、きわめて珍しいスタイルをもつこの作品の、最大の収穫といえるのではないだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?