鳥府久松山御城積間図

いま、そこにある城下町(未定稿)

 観光ガイドやパンフレットなどを見ていると、「城下町鳥取」、といったようなフレーズが目に飛び込んでくることがある。鳥取砂丘、温泉と並んで、「城下町」というのが鳥取のセールスポイントである、ということなのだろう。

 しかし、このフレーズには、実際に市街地にすんでいる方、特に若い世代の方などは、多少の違和感を覚えるのではないだろうか。鳥取城跡に石垣はあっても、建造物が残っているわけではない(明治10年~12年に解体された)。戦災こそ免れたものの、鳥取大震災(昭和18年)・鳥取大火(昭和28年)という二度の大災害のために、町並みにも江戸時代の面影はほとんど残されていない。「城下町」という言葉を連想させる具体的なものがほとんど目に入らない以上、むしろ違和感を覚える方がふつうの感覚のようにも思う。

 しかし、不思議に思われるかもしれないが、「鳥取城下町は、全国的に見ても江戸時代の姿をよくとどめた町」なのである。

 それは決して嘘でも誇張でもない。ウワモノ、ハコモノこそ消滅してしまっているものの、その下にある土地の区画や道筋の多く、つまり都市プランそのものは、多少の改変を受けながらも、かなりの部分残されているのである。

 たとえば、旧袋川などは、その代表格といえるだろう。普段何気なく見逃してしまっているかもしれないが、旧袋川の市街地部分は、江戸時代に人力で掘られた河川なのである。この川が掘られるまで、久松山の麓は泥沼のような湿地帯だったとされている。

 元和3年(1617)に姫路から転封されて鳥取藩主となった池田光政とその家臣団にとって、それまでの城下町は小さすぎた。そのため、新しく川を掘り、湿地を埋め立てて町を広げる必要があった。光政は、元和5年から、農閑期に因幡・伯耆の二国の領民を大動員して、旧袋川の開削や町割りなど、城下町の基本的なプランを作り上げた。

 光政は寛永9年(1632)にさらに岡山に転封となるが、同族の鳥取池田家もこのときの基本プランを踏襲し、近代の都市計画も基本的にはそれを尊重する形でたてられている。やや大げさにいえば、鳥取市街地のグランド・プランは、江戸時代初期にすでに完成されていたともいえる。

 旧袋川は、それを象徴する遺跡なのである。

 鳥取城は、江戸時代の鳥取藩領(ほぼ現在の鳥取県域)全体から見れば、東の端に所在している。この場所に居城(藩主の住む城)を定めることについては、当初から疑問が呈され、他の場所に移すことも検討されたらしい。近世前期の地誌『稲場民談(記)』(『因幡民談記』とも)によれば、戦国時代まで山名氏の拠点であった布施の天神山城、天神川流域の茶臼山、伯耆の米子・倉吉がその候補に挙がったという。倉吉は交通の面に問題があり(「山奥ニテ国主鎮坐ノ処ナラズ」)、米子は地形・輸送面では有利だが藩領の西端に過ぎ(「尤地利ヨク当事自由ノ処ナレドモ、両国辺端ナレバ此処ハ難成」)、天神山は理想的な場所だが廃墟となっていたため整備に時間がかかる(「久シク退転セシ草莱ノ古虚ナレバ、五年三年ニ全備スべカラズ」)という問題があって退けられた。その中で、茶臼山はもっとも有力な候補として、測量まで行われたが(「地形尤モ宜シケレバ此処ヲ用ヒラレン歟トテ、己ニ広狭ヲ積リ縄張ヲセラレケレドモ」)、やはり新規の地なのですぐには使えない(此処モ新地ナレバ俄ニ取立ル事難成)ということで、結局、鳥取城を居城とすることとなった(「鳥取ヲ広メ用ヒラルべキニ窮リケリ)。鳥取を「理想的な場所」ではなく「現実的な場所」として選びとられたのである。

 鳥取を居城と定めるにあたって、光政は城下町を大改造する必要があった。

 関ヶ原の合戦以降、鳥取城は因幡のうち六万石程度の藩主・池田長吉の居城で、城下町もそれにみあった小さなものであった。そのため、因幡・伯耆あわせて三十二万石の藩主となった際、光政の家中と、その用を足すための町人たちをを住まわせるキャパシティが無かったのである(「上下人数居塞リ、家毎ニ居集テ、寸土モナキ如クナリ」)。そのため、光政は旧袋川を掘らせ、大規模な城下町を造成したのである。

 残念ながら、このあたりの事情を示す一次的な史料はほとんど残されていない。『稲場民談』の記述をそのまま鵜呑みにするわけではないが、大筋ではこのような経過をたどって、鳥取城下町は生まれたのである。

 「現実的な場所」として選んだ鳥取の地を、「理想的な場所」に作り替えようとして行われたのが、池田光政による城下町造成だった。

 光政による城下町拡張の際に、居住可能な土地を増やそうとした苦心の痕跡は、いまでも市街地のいたるところにみいだすことができる。

 たとえば、最近道路幅の拡張と古い民家の保全との関係が取りざたされた大工町などには、「薬研堀」の痕跡が色濃く残されている。これは最近、県庁職員を中心とする有志が調査を始め、新聞などでも報道されたのでご存じの方も多いと思う。鳥取市の、昭和初期頃までの地図にははっきりと描かれており、簡単になぞることができる。

 この堀は、旧袋川開削に先立ち、もともと久松山下を流れていた川を利用して作られたといわれるものである。鳥取の江戸時代を代表する歴史家・岡嶋正義が書き残した『鳥府志』に、順を追って城下町の拡張を示した図があるが、それによればこの堀の開削は池田長吉(輝政の弟で、1601年から光政入府まで因幡のうち6万石を領有していた)の時のものであるという。岡山大学に残されている絵図を見ると、旧袋川が土手として描かれており、水の入った堀が薬研堀しかないものがあるから、この岡嶋の記述にはある程度の信憑性があると見て良い。自然河川の流路を利用しつつ堀として整えたため、一部堀としては不自然な構造となったのだろう。

 この堀は、昭和前期に埋設され、現在では暗渠となっている。しかし、埋め立てた後、その上が道路化された場所については、その上をなぞって歩くことができる。たとえば、鳥取市役所本庁舎と上魚町の駐車場の間の道を市民会館に向けて入り、本庁舎の角で日本赤十字病院側に曲がる道は、誰でも分かるくらいに周辺の土地から落ち込んでいる。現地に行けばすぐに確認できるので是非ご覧いただきたいが、これが薬研堀の遺構である(2015年現在、日本赤十字病院の増築に伴い消滅している。鳥取市埋蔵文化財センターにより記録保存のための発掘調査が行われ、石垣をもたない堀であることなどが判明している)。大工町郵便局から寺町に向けて大きく迂回しながら伸びる道も分かりやすい。これも、周辺の家の庭の方が数段高いレベルで作られているから、すぐにわかるだろう。航空写真などで検出しやすいのもこの一帯である。

 また、この堀は、機能的には町人町と武家町を区分するものである。よく「鳥取城下四十八町」などといわれるが、これはあくまで薬研堀と袋川の間に配置された二十の町を中心とする町人町のことで、薬研堀から鳥取城にかけての間の武家町などは実は含まれていない。この薬研堀には武家町と町人町をつなぐ橋が何カ所か架けられていたが、惣門という門が設置されており、町人が武家町に入るには鑑札が必要だった。現在の官庁街化している西町・東町などはこの武家屋敷地区の中枢であり、主席の荒尾家をはじめとする重臣たちが屋敷を与えられた場所であった。

 同じ水回りでももっとミクロで、しかも生活に密着していながら気づかない遺構に「悪水抜き」がある。

 この「悪水抜き」は、袋川の内側の、もともと町人町として立町された地区に特有の遺構である。鳥取県立博物館所蔵の安政6年の城下絵図などでも確認できるが、その正確な回り方は、鳥取市歴史博物館所蔵の『溝渠図』によって知ることができる。これは、町と町の境に掘られた排水溝である。鳥取城下の、もともと低湿地であった場所には、この排水溝が不可欠であった。それは、地下水や保水力のない久松山系からの流水の排出のためである。

 現在ではほとんど暗渠化されているため、溝そのものを確認することはできないが、多くの場合共有地・公有地としてその部分が小道、路地として残されている。これは、鳥取城下建設の際の「水との戦い」のモニュメントであるとともに、城下町の区画の残滓でもある。

 水との戦い、と書いた。鳥取城下町にとって、水はしかし、害悪だけをもたらしたわけではない。

 現在では余り想像できないが、かつての旧袋川は、物資輸送のための要路だったのである。現在も旧袋川の土手には水面まで降りられる段が残っているが、これはもともと取水や船とのやりとりなどのために設けられたもので、為登場と呼ばれたものである。旧袋川は、賀露港や千代川からの船を城下まで引き込む運河の役割を果たしていた。江戸時代には、旧袋川沿岸に「御船宮」という藩の造船所を兼ねた役所があり、水運の管理や藩船の保守などをおこなっていたが、これも現在は消滅している。

 鹿野橋の為登場には大きな荷揚場があり、城下の市に物資を運び上げていた。船着き場もあって、ここから旧袋川を抜けて千代川に出る水運は、昭和初期までは機能を保っていたようである。河川の整備によって水量が下がり、陸上運送の整備によって水運の重要度も減って、袋川の船は姿を消した。

 樗谿公園に梅鯉庵という茶室が設けられているが、その横に置かれている船が、袋川に浮かべられた最後の屋形船であるという。

 私はかつて、「江戸時代、『諸国』繚乱」と題する、鳥取藩を中心に、同じ外様大名の大藩について紹介する展覧会を企画・担当したことがある(平成13年・鳥取市歴史博物館)。

 この展覧会の中で目玉の一つと位置づけていたのが、各藩主の居城の城下町を描いた絵図である。仙台、金沢、鹿児島の鳥瞰図タイプの絵図が一堂に会するのはおそらく全国初だったと思う。鹿児島と仙台は絵図的な要素が強く、金沢は絵画的な要素の強いものであったが、それぞれ内容・作風ともに地域の特徴を反映しているようで面白かった。たとえば、鹿児島の城下絵図には、琉球船や天文台が描かれている。鹿児島城を背景に湾を描いた構図も、日本の町と言うよりは、たとえばベネツィアのような、異国の海洋国家に似ているような錯覚を誘う。仙台は芭蕉の辻という都市のヘソを中心に、街道沿いに町屋が十字に広がり、その間を広大な武家屋敷が埋めている。金沢は、犀川という城下の一方の境界線を境に、地域性が劇的に変化しているように見える。

 このタイプの絵図は、鳥取には残されていないが、鳥取城下町のこのタイプの絵図が残っていたら、視覚的にはどう見えるのだろう。

 そのような関心に基づいて、当時のスタッフと頭をひねって、コンピュータ・グラフィックスを製作してみている。

 この時コンピュータ・グラフィックスは、鳥取市歴史博物館の図録『城下町とっとり まちづくりのあゆみ』などに掲載されているので、関心のある方はご覧いただければと思う。

(2002.9「朝日新聞」掲載原稿をもとに2015.6.20改稿)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?