僕らは今、100回目の人生かも😌
こんにちは!✨
自然・食・旅行・ダンスがキーワードのたかしぃことマスター参上🏖
前回に引き続き、今回も「死」に関するお話を進めていく。
前回と違うところは、前回よりも僕の考える「死」についての内容が多く盛り込まれていることだ。(勿論、書籍からの引用も数多くある)
そのため、科学的な根拠があまりないことに関しては、お許し願いたい。
それでは早速💁♂️
①既に僕らは輪廻転生していた説
まず初めに、完全なる僕の想像上のお話をする。
ここでは特に、輪廻転生について。
「なぜ、僕らは死んだ後≒未来のことばかり気になるんだろう?」
と、僕はふと疑問に思った。(これより先は、完全なる持論が展開されていく)
もしかすると、今の僕らは既に"別の形"として(例えば虫、鳥、魚、猫ちゃん、はたまた人間)99回くらい地球に"存在していた"かもしれない!!
今は"人間"として100回目の人生かもしれない!!
もしかしたら、僕たちは既に"死に慣れている"と言えるかもしれない。
残念なことに、これには全く根拠がない。
99回分の記憶って一切ないなぁ。。
おそらく"101回目の僕ら"も、今の100回目の人生=人間として生きていた時の記憶は無くなるのかなぁ。
とても悲しい😢
また、僕たちの誰かが輪廻転生という発想をし、それを言葉に残そうとした(実際残っている)時点で、以前に別の形で自分が"存在していた"ことを無意識のうちにわかっている証拠なのではないか?と僕は勝手に考えている。
そのため、時折僕らは「死んだら何になるんだろうね〜。」などと会話するのではないかなぁ。。
②早く死ぬことは嫌だが不死も嫌だ。
前回の投稿にも書いたとおり、「死」が悪いとなる主な要因の一つは、死ぬことによって、僕たちがその先に経験していたであろう様々な良いことが奪われるからだ。(その先の未来が暗いかもしれないことは、ここでは考えないことにする)
では、仮に僕らが不死だったらどうか。
僕らは、不死を舐めてはいけないかもしれない。なぜなら、不死は文字通り、永遠に死なないからだ。
ここで一つ例を出してみる。(適切な例ではないかもしれないが)
僕らが、チョコレートを半端なく貰ったとする。おそらく、最初の何個かまでは美味しくかつ嬉しく食べ進められるが、どこかで食べた時の美味しさや嬉しさには限界がくるはずだ。(もちろん人それぞれではあるが)
これと同じように、「生きる喜びを感じることができる年数には、限界があるのではないか?」と言えるかもしれない。
生きる喜びを感じることができる年数の限界が、100年なのか、200年なのか、はたまた1000年以上なのかは勿論わからない。(僕的に100年は短い。。)
しかし、寿命は限られている。。
限られたこの人生を、どう過ごしていこうか。
③"存在しない"ことがどうして悪いと言えるのか?
この本(「死」とは何か?)によると、
「僕らって、死んだらどうなるんだろう?」と恐れても意味がない。
なぜなら、「死んだら何にもならない」からだ。(辛辣ぅ!)
自分はもう存在していないのに、なぜ死が悪いと言えるのか?
悪いことなど何もない。
また、死ぬこと="存在しない"ことを悲しむなら、生まれる前="存在する前"のことも悲しむべきではないか?という話にもなってくるが、ここでは議論しない。(この発想には驚いた)
以上のことが、僕がこの本を読んで特に大切だと感じたことだ。
前回に引き続き、「死」に関する内容を扱ってみたが、正直、僕にはまだ語れるほどの度胸も器もない。
それでも、この本を読んで感じたことや大切だと思ったことが多くあったため、シェアさせてもらうことにする。
最後まで読んでくれた方、ベリベリありがとう😊
それではまた!
Have a good day🙌
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