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父の人生を変えた『一日』その13~名古屋からアメリカへ~

その13 ~名古屋からアメリカへ~
 私は、㈱トーメン名古屋の野球部のキャプテンをしていた。芝浦工大のエースをしていてプロにスカウトされるくらいすごいピッチャー坂東君がいた。野球は巧かったが選挙の結果、私がキャプテンになった。野球が巧いだけはキャプテンにはなれないのである。
その野球部の若い人たちが私のシアトル勤務に『驚きと感激で』いっぱいであった。名古屋支店から海外特にアメリカに転勤する事が少なく東京や大阪がほとんどであった。すごいアメリカ転勤だ「俺達も頑張れば名古屋からアメリカに転勤できるのだ」と若い人たちは皆そう思い自信を持ちそれから頑張ったと聞いている。若い社員に『夢と希望』を教えられたと思った。やはり頑張れば道は開かれるのである。
 8年もいた名古屋を去るときは友人とお客様と『涙の別れ』であった。東京2年そして名古屋8年。赤出汁にも慣れ名古屋コーチンにも慣れ味噌カツにも慣れきしめんにも慣れひつまぶしを沢山食べた尾張の国名古屋に別れを告げた。
一路アメリカに向かった。飛行機の中で
『買ってくるぞと勇ましく』
(昔は戦争で『勝って来るぞ』だが、私は木材を買って来るぞ)口ずさんでいた。
『待ってろよ』アメリカ。金髪の外人ども、ライオンが行くぞと武者震いした。人生を変えたあの日静かに思い出していた。今度は仕事でアメリカ征服だと自分に言い聞かせた。


~倅の解釈~
 父が亡くなった後、色々とご指導頂いた名古屋の坂東氏がこの章にも出てくる。名古屋での8年間は父にとって大きな修行の場であり、晴れ舞台「アメリカ」への切符を獲得した場でもある。
 名古屋では総合商社マンの家族として暮らしていた記憶が私にとっても鮮明に残っている。最強の貧乏暮らしだった。まだ社会に出たばかりの親父。「サンビル」というトーメンの社宅暮らし。ボロアパート。お袋はアパートの中で学習塾を開校させ、いつも近所の子どもたちが勉強しに来ていた思い出がある。おかかと卵のチャーハンを何度も何度も食べた記憶がよみがえる。クリスマスツリーが買えず、サンタからのプレゼントは車のトランクの中でオープン。祖父や祖母が年に一度、名古屋まで車で沢山のお土産を積んできてくれた。年末、長岡に帰省するときはお袋と私と妹三人で。親父は仕事が忙しくほとんど休まなかった。貧乏だったので、お袋の運転で、下道10時間以上かけて、車で長岡へ。親父もお袋も必死に私や妹を育ててくれた。名古屋での思い出、懐かしい。
数年前、弊社の社員旅行で名古屋へ。その時、営業マンたちと幼少期住んでいた「サンビル」を訪れた。思い出がこみ上げてくる。親父がここで下積みをした。ここで、アメリカへの切符を獲得した。水澤家にとっては名古屋での8年間は大事な大事な時間。私にとって、第二の故郷名古屋。

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