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村という単位について考える

 外界から圧迫感や恐怖感による斥力と田舎暮らしの重力が重なり退屈と閉塞感であふれかえって絶望しそうな怠惰な日々の中、自分の頭を少しは身近な地域や暮らしのため建設的な事に使おうと思う今日この頃です。そんな事で今回は小さな暮らしについて探求してみます。ここではまず村という単位について改めて考えます。

 近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位だった。江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承していた。江戸時代にはこのような自然村が、約6万以上存在した。また、中世初期の領主が荘園公領とその下部単位である名田を領地の単位としていたのに対し、戦国時代や江戸時代の領主の領地は村や町(ちょう)を単位としていた。
 近現代の大字(おおあざ)といわれる行政区域は、ほぼかつての自然村を継承しており、自治会(地区会・町内会)や消防団の地域分団の編成単位として、地域自治の最小単位としての命脈を保っている面がある。
明治時代に入ると、中央集権化のため、自然村の合併が推進された。こうして、かつての村がいくつか集まって新たな「村」ができたが、これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいう。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/村

行政村的に考える
 私が現在住んでいる高畠町の元となったのは6つの村落らしく、今も同じであれば現在5000人程度だろう。行政区分は管理側や再開発時の都合で区分されており、暮らしや文化にはあまり根差していいないだろう。
 極端な例は想像しやすいので全国で最大と最小の行政村を調べたものを下記に掲載してみる。読谷村の4万人といえば「町」より多い人数だったりするし、十津川村は東京都23区より広いようだ。青ヶ島は島なので分かりやすくそのまま行政区分されており、船橋村は規模感的に少し大きめの自然村がそのまま行政村になったと想像できる。

最大
人口部門:沖縄県 中頭郡 読谷村 39,628人
面積部門:奈良県 吉野郡 十津川村 672.38k㎡

最小
東京都 八丈支庁 青ヶ島村 175人
富山県 中新川郡 舟橋村 3.47k㎡
都道府県市区町村より https://uub.jp/rnk/v_j.html

自然村的に考える
 大字というのが自然村的な暮らしの名残だとして大字について考える。これに一番近い言葉としては集落になるだろうか。町内の近隣エリアの大字に属する戸数を見てみると10戸から200戸程度。隣の地名とは丘を挟んで少し距離があったり、小さな川で区切られていたりする。自然村的な発想はやっぱり地理的な要素が大きいだろう。
 今私が住んでいるのは大字時沢というエリアで大体60戸位である。60戸の集落だけれど山を含むと3~4k㎡の広さがあり、この集落の共同体としての機能はいまだ残っており、メインとなる区長を中心とした時沢自治会、OBが所属する評議委員会、地域防災を担う消防団、消防団OBによって構成される自警団、小学生以上の子供がいる家庭からなる育成会。毎年2,3万円の区費を集める時沢自治会を中心に大まかにはそんな組織が今なお機能している。この地域に学校があったころは行事もより多くその分組織も多くあったようだが自分の暮らしにかかわる部分以外はほとんどそぎ落とされている。あくまでここでは私の住んでいる場所の話を書いたけれど、今後サンプルとして色々調べてみたい。

そもそもなぜ「村」という単位を考えたか?
 理想の田舎ぐらしとはなんだろうか。そこにはどんな思想や発想があったらいいだろうか。そんな問いから今回の話を考えている。地域を構成する最小単位の分析する事で希望を導き出したい。
 ふと自然村が出来る所を想いを馳せると農耕が盛んに行われ集団行動をする事で生産性が上がる合理性から自然村となり、自然村の維持のため山岳信仰や地域行事が行われてきた。そこでの体験を通じて価値観や文化感を共有する人々が、村としての存続や発展を願い今に至っているのだろう。仮にそれを村落主義と仮定していこう。
 地域には重力があると感じている。「おだやかに生をまっとうしたい」そんな重力だ。村落主義はそんな重力を内包した発想かもしれない。これはまた別途書いてみようと思うが、前述のとおり村落主義にある程度根差した地域の共同体は存続しているがそこには「生命力」が少なくただただたゆたうだけだ。
 私自身地域に居てふとしたことで価値観の違いを感じたり、地元で生まれ育った人とは相いれない部分を感じたりもする。しかしながら地元に住んでいる人は血縁や風習や空気感を共有していて、地域をどうにかして盛り上げたいそんな「村落主義」を体現する人が今なお根付いている気がする。それはこれまでの地域の根幹にあった重要な発想だろうけれど、外からも人が集まる地域を作ろうとしたときに少しずつ変わらなければならないのだと思う。
 よそ者として地域に暮らしている私のような人にとって田舎や小さな暮らしにとって理想になる考え方を導き出すことと、その要となる単位を作る事が今回の探求の最大のテーマかもしれない。そうして導き出したアイディアが実現して、誰か同様の人にとって役に立って、普遍的な価値になったりしたらいいなぁ。そんなことを考えて近隣の出来事を見ると今政府が掲げている「地方創生」という名称はあまりに壮大だと感じる、「地方暮らしもいいかもよ運動」というのが現状に近しいかもしれない。ともあれ次は現状の集落を担うにはどんな単位の共同体や考え方が必要かそんなテーマで考えよう。

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