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楽する事のその先にあるのはなんだろう

 近代から現代において僕らの暮らしは随分と楽になっただろう。私自身田舎にいながら、先人が培ってきた暮らしのインフラやインターネット社会の恩恵を享受しながら楽しく暮らしている。最近はひきこもってバーチャルな世界での遊びを謳歌していることもおおく、その後リアルに戻るとなんか少し憂鬱な気分になる。そんな暗い思いでつらつらと考える事を書き連ねてみる。

究極的には何もしたくない
 というのが怠惰な暮らしを享受した上で、私自身の本能的な感情が訴えかけてくる所である。スマートという言葉は元々賢いとか機敏とかいう意味だろうけれど、スマートなデバイスを使いながらスマートとは程遠い暮らしをしている気がする。スマート○○から提案される事を素直に聞いていると僕ら人間はある意味ではおバカになっていく様なそんな気がする。そうしておバカになった発展の先にひきこもりで全てが完結する環境があって。それはある種一つの終着点な気がする。そこに可能性を見出す人はひきこもりのその先を探求して欲しい。私自身その発展は行き止まりに思えるから、別の可能性を考えてみる事にする。
 
 では今ある発展や進歩を捨ててもっと動物的で自然と寄り添った生き方をすべきかというとそれもまた違うだろう。道具と共に進化してきたのが今の人間社会だろうし、生きるも死ぬも皆すべて天が決めるなんて今更そんな暮らしには戻れない。みんなが誰かの理想社会のためやりたくない事をやって苦労すべきというのもまた違う気がする。

ひどく個人的な話から
 余計なことを考えなくてもいい、余計なことをしなくてもいい。余裕の出来た頭で余計じゃない物事は何だろうと知恵働かせる。私自身の事などどうでもよくて、なにものにもなれずに僕らは年老いて、日々死に近づいていく。そんな閉塞的な空気感が僕らをまたどんよりと気分を暗くする。
 人間所詮死んだら終わりさとそんな風に嘯いてみても生きてる間の生きてる世界のルールからは逃れられない。かといって死ぬほどの理由もない。
 だからこそ自らが豊かに生きる事を考えるけれど、豊かさとスマートさと究極的に楽する事を求めた先はどこが違うのかなどとまた堂々巡りの繰り返し。楽しようとすればするほど自分の愚かさや浅はかさに気づき辟易とする、そこで中途半端な良心や世間体等気にしなければどこまでも楽になれる気がするが、幸か不幸かそんなふうにはなれないようだ。僕自身の中の評価基準もそうだけれど、世の中の数多ある物事の価値は僕らがいいなと思うそんな感情によって日々変化していて、普遍的な価値なんてのはあるわけもなく。そんな絶望的な感情の中でふと自分しか知りえない希望的な感覚にすがりながらなんとかかんとか日々を繋ぐ。こうして考えて言葉にしてみるのは余計な事だろうか。少なくとも自分にとっては必要な事のような気がする。どうせ選ぶならいつも遊んでいるような生き方がいいなぁ。そもそも僕が遊んでる時楽しい時っていつだろう。旨いもん食ってても、人から評価されてもその実は無感動だったりもする事が多い。なんか未知の世界に出会った時とか未知の価値観に遭遇した時だろうか、それを誰かと共有したり、その中で新しい発見があったり、そんな時に一番心動かされるような気がする。

少しでも他人を想える話
 そんなことを考えながら少しくらい自分の外側にも希望を持たなければ正気で生きてられないなと考えがまた進む。かといって日本を変えるとか世界を平和にするとかそんな夢を宿せる程器が大きくない。そんなわけでやっぱり田舎暮らしの哲学をするのが一番僕にとっては誰かにとって役に立つ事というのが知恵の出しどころなんじゃないかなとやっぱり思うところ。近くに住んでるおじいちゃんおばあちゃんが豊かに天寿を全うする知恵。これからを担っていく若者がこれから生き抜くのに必要になるであろう知恵。そしてよそから来て地域社会に住む私のような人が生きていく知恵。そんな小さな暮らしの小さなお役立ちの知恵。
 それは誰かが唱えるスマートで普遍的な情報じゃないのかもしれないけれど、誰かにとって大事な言葉であり、必要な考えかもしれない。

そう考えた時、地域に住む人にとって必要な知恵って何だろう?
やっぱり「お金」の話かな?
いやいや「健康」の話だろうか?
それとも「家庭や子育て」の話だろうか?
「地域産業の振興」なんかは一部の人にすごくささるかも?
 やっぱり興味があるのは日々のくらしをどう絶望せず続けていくかってそういう知恵なのかも、でもあまりにも個人的な話だと関われる部分も少ないかもしれないし、遊んでるみたいに楽しくやれるか微妙だなーなんて思ったり。小さな暮らしの知恵だとしてももう少し大きな規模での知恵なのかもしれない。やっぱり村と言う単位でもう少し定量化した暮らしの分析したら、これまで見えなかった価値とか世界に触れられるかもしれない。村と仮定した単位についても定義が曖昧だからその辺の定義づけからやるのがいいか。

こうして書いてみると堂々巡りの憂鬱も少しは晴れた気がする。
絶望的な気分の時でこそ思い浮かぶこともあるだろう。

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