他人と比較すること①

ん久々に何人かで食事して、気がついたことがある。

お金で測ると自分って、そんなに大した価値ないんだなって。

とても分かりやすく人の価値をお金で測ることができる。だから、自分が大したことないように思える。

そして、それぞれ違うからお金で測ることは間違いみたいな言い方がある。
「お金で測るか、多様な個性で測るか」
という問題にしてしまっている。

人との違いをそういった基準でしか見れなくなってしまっていた自分がいる。

比べるか、比べないか。
そこが問題ではなく、核心はなぜ気になるのか。なぜ「自分は自分」と割り切れないか。
なぜ他人と自分の関係で考えるのか。

比較することとは、線を引いてあちらとこちらを分けること。
比較しないことは、そのものの固有性を認めて分ける意味を無くすこと。

さて、なぜ分けるか。
分けることの意味は、線を引くためにある。
これはあるものの輪郭を作ることである。
あるものとそうでないものに分けることで、あるものを輪郭で縁どり、定義付けを行う。
定義付けによって、人は何かを捉えることができる。

何かを捉えるには、おぼろげでは捉えることは出来ない。
明確であってこそ、私達は認識できる。
認識こそすれ、理解とは異なる。

認識は感覚で捉えることであるが、
理解はそれを言語化し、再現可能性を高める作業である。

人は物事を記憶する時も同様の行程を踏む。
すなわち、論理的に把握できるものは、同じ構造を持つものとして、再現することが可能。この再現されたものは、そもそも背景に論理的に構造化したものの集合であるから、その内部構造は、全て論理化されている。従って、再現される前のオリジナルの要素の内いくつかは捨象しているものの、その構造から人間の把握できる範囲で、ではあるが、そのオリジナルと全く同一な再現物である。
この再現物は、幾分かオリジナルから捨象されているものの、その把握できる人間の認識、理解の精度の限界値のため、同じものとなる。

ここで話を戻すと、我々は人間を、自分を把握しきれない脳の限界を抱えながら、挑戦し続けるのである。

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