永遠平和

国際法において一国家は、自然的自由の状態において、したがってまた永続する戦争状態において他の国に対立する一道徳的人格と見なされる。
連合体がもたざるをえないのは、(市民体制におけるような)主権という権力ではなく、同等な者の関係(同盟関係)だけである。この連合体はいつでも解消可能であり、したがってそのつど更新されなくてはならない。
ところが諸人民からなるそのような国家があまりに広大に拡張されすぎると、この国家の統治は、したがってまた個々の成員の保護は、結局は不可能とならざるをえず、またそうした連合体が多くなればなったで、戦争状態が招来されることになる。それゆえに言うまでもなく、永遠平和(国際法全体の究極目標)は実現不可能な理念ではある。しかし、これを目指す政治的原則は、つまり永遠平和への連続的接近に貢献するこうした国家の連合体を形成するという原則は、実現不可能ではない。それどころかこの接近は人間と国家の義務に、したがって権利に基づく課題であるのだから、もちろん実現可能である。

(カント『人倫の形而上学』)

自然状態はホッブズの言うものに近い。

"国家人格"においては社会契約は実現しない。つまり"国家による国家"は成立しない。

その原因は、(通常の意味でも"国家による国家"の意味でも)国家の成立条件に「成員の上限:個々の成員を保護できる」があると取れる。

ロック的によって法は個々の成員のプロパティが保全されなければならないので、当然の条件に思える。

成員の上限は単に数というより多様性、一定の同意が取れるほどの利害や価値観の共有可能性によると考えられる。

"国家による国家"は成立するか

"国家による国家"で直ちに永遠平和が実現するわけではない。(現に存在する国家の中を平和と言い切るのは難しい)

一旦「自然状態を一般意志の強制力で回避できた方がいい」という理想を置いたとして進める。

想像の共同体としての”国家による国家”概念は少なくとも「地球を共有していること(地球市民)」になりそうだ。

問題は国家人格の間で道徳法則が成立するかが問題になりそうだ。つまり、そもそも"国家人格"に格率が存在し、そしてそれが一般化されなければ、"国家による国家"の中で従うべき一般意志が正当化されないのではないか、という疑問である。

格率の存在から人間と"国家人格"のアナロジーが成り立っているか怪しい。つまり、人間は何に従うべきかを一定決められたとしても、"国家人格"が決められるかはわからない。決められなければ、そもそも"国家人格"に道徳など存在しなくて、動物のようなものだということになる。
(カントは道徳的人格だと言っているが)

別の方向から考えると、例えば、ルソーが想像したような人間の慈愛や嫉妬の心が国家にあるわけではなさそうであり、それゆえに一言に自然状態と言っても争いが起きる理由から異なりそうだ。

しかし、人間の原始状態も長かったのだから、"国家人格"も進化していくものだと考えるならいつか何かしらの道徳法則を共有するのかもしれない。

動的平衡としての平和

"国家としての国家"の否定も、直ちに永遠平和の否定にならない。
国家は静的な概念であると言える。
「永遠平和への連続的接近」は可能だということを肯定的にも捉えられる。

それが国連主義なのかはわからない。

少なくとも"a world where people work towards their own understanding of peace, while respecting understanding the views of others"ってやっぱりいいなと思った。

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