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子どものころ若草劇場で垣間見たものは

小学生だった

 生家の近くに劇場があった。「若草劇場」という名前で、核戦争後の救われない世界を描いた映画を子どものころに見た気がする。

 テレビに食われて映画業界の景気が悪くなったせいか、若草劇場は後にストリップ劇場へ衣替えした。舞台で繰り広げられる出し物がどのようなものか、小学生のわしはおぼろげながらも察知していたが、じっさいに見たことはなかった。

「修理できました」

 出し物をこの目で確かめる機会は5~6年生のころにめぐってきた。わしの生家は街の電気屋で、修理のためにテープレコーダーが持ち込まれた。カセットテープはまだ無くて、オープンリールのでかい機械だった。修理のできたテープレコーダーを届けるようにおやじから言いつけられた先が若草劇場だった。

 そのテープレコーダーは、ふたを閉めると小さなスーツケースみたいになり、持ち手が付いていたと思う。小学生のわしは、レコーダーの持ち手を握りしめて何十メートルか先の若草劇場へ行った。

2階から見下ろすと

 もぎりのところで断りをいれると、2階へ持っていくように言われた。階段を上がると、スイッチのならんだ操作台があった。照明やら音響やら、舞台の進行に合わせてここからコントロールするのだろう。そこからは、舞台をしっかり見渡すことができる。

 テープレコーダーを運びながらおそるおそる階下を覗くと、派手な照明に彩られた舞台の上で僅かな衣装の女性演者がくねくねしていた。音楽も鳴っていた気がする。引き渡したテープレコーダーはまだセットされていなかったので、あれはレコードだったのかもしれない。

脳みそに刻み込まれたもの

 半世紀以上も前のことなので、いま書いていることに思い違いや幻が含まれている可能性はおおいにある。

 ひょっとしたら、自分一人で運んだのではなく、機械を運ぶ親父の手伝いをしただけかもしれない。舞台が休憩中か何かで、演者をじっさいには目撃していないことだってありえる。有楽座という劇場もあったので、話がこんがらがってる可能性もある。もう中学生になっていたかもしれない。記憶をたどればたどるほど、頭の中の画面はあいまいになり、霧の彼方へと遠ざかっていく。

 ただ、テープレコーダーを劇場2階へ運んだことや舞台を見下ろしたこと、そしてそこがストリップ劇場であったことは、脳みその奥深いところにくっきりと刻みこまれている。

今と昔

 それにしても親父はなぜ、子どもをストリップ劇場に行かせたのだろうか。受付で用は済むと思ったのか。劇場や酒場が点在する街の雰囲気のせいだろうか。それとも、なにごとかを目撃してもそれはそれで世の中について勉強することになるだろうと考えたのか。うちの親に限らずその頃の大人は、無頓着というのか鷹揚というのか、子どものことにあんまり構わなかった気がする。

 そのころに比べて今は、子どもに対する大人の視線がきめ細かくなったかもしれない。今と昔とどっちがいいのか、わしにはよくわからん。若草劇場はやがてボウリング場になった。いまはマンションが建っている。

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