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居場所支援のイマ・コレカラ

居場所にならなかった場所
「自分の居場所はどこだろう」
と自分に問いかけてみたとき、最初に頭に浮かんだのは「自分の居場所にならなかった場所」だった。その場所というのは、大学院に身を置いていたときの研究室である。

修士課程が始まって最初の夏、ほこりっぽい研究室に寝袋と100円ショップで購入した簡素な食器類を持ち込んで泊まり込みの研究生活を送っていた時期がある。
ちなみに、自宅から研究室までかかる時間は1時間程度。問題なく通える距離だ。
家に帰れば食事もある。研究室の床よりは寝心地のいいベッドもある。
通学の往復時間が削れるとはいえ、研究室に寝泊まりすることが研究を進めていく上で必要だったかというと、甚だ疑問である。

しかも、研究生活と表現したものの、研究そのものはほとんど進まなかった。
学部時代とは異なる専門領域の大学院に進学したために、研究の何から手を付けていいのか皆目見当もつかなかった。そのうちに自分が何を研究したいのかもわからなくなってしまった。他のゼミ生との会話についていけず、研究室で人と話す機会はどんどん減っていった。彼等に自分の悩みを打ち明けたら、自分が何もわかっていない奴だと思われそうで、それが怖くて、さらに孤立を深めていった。
そんな状況が続き、研究室にいるのがつらくなり、私は人知れず寝袋を畳み、研究室を出た。そして、半年ほどひきこもることになった。

結果的に、大学院の研究室は居場所にならなかった。

じゃあ、居場所ってどんなところなんだろう。自分が居場所と言える・思える場所ってどこなのだろう。

居場所の条件
私はここ10年ほど、子ども・若者支援を行っている自治体やNPOをお手伝いする仕事をしている。
その過程で、居場所支援の現場を見学させていただく機会もたくさんあった。そういった機会を振り返って思うことは、居場所には実に多様な形がある、ということだ。

例えば、居場所がある場所。公共施設の一隅に居場所が設けられている場合が多いが、NPOの施設の一部だったり、普通の民家が丸ごと居場所というケースもある。最近の事例としては、学校の中のスペースをカフェとして運営する「居場所カフェ」のような取り組みもある。

勝央町居場所2

☝岡山県勝央町の総合相談窓口「ぽっと勝央」
町の公民館の中にあり、居場所の役割も兼ねている

運営主体は自治体直営ということもあれば、社会福祉協議会のような社会福祉法人、NPOのような民間事業者が運営しているケースも少なくない。
また、提供される支援という切り口で見ても同様である。勉強を教えたり、就労支援を行っている居場所から、ゲームを楽しんだり、漫画を読んだりと、ただの遊び場のようなところまである。

このように、とらえどころがなく多様というのが、私にとっての居場所の印象だ。

しかも、ここまで取り上げてきた居場所は「狭義の居場所」とでも言うべき事例についての印象である。狭義の居場所は、言い換えると、事業として行われている居場所支援である。
それに対して、事業として運営されていない居場所までを「広義の居場所」とするならば、居場所の多様性はもはや「どこだってあり・なんでもあり」の様相を呈してくる。

周囲の人に「あなたにとっての居場所とはどこか?」と質問してもらえば納得していただけると思う。ある人は「近所の公園」と答え、またある人は「隣町のゲームセンター」と答えるかもしれない。「自分の部屋」という答えも、もちろんあるだろう。

このように、本当に多様な居場所がある中で、それぞれの居場所を「居場所たらしめるもの」は一体何なのだろうか。
社会活動家として全国で子ども・若者支援を行っている湯浅誠氏は、居場所とは「栄養や知識」「体験(交流)」「時間」「生活支援」を提供する場所であると説明している。そして、中でもとりわけ重要なものを「時間」だとしている。

『子どもには、かまってもらう時間が必要だ。話しかけたり、耳を傾けたり。そうした人との関わりの中で、子どもたちは社会性や常識を身につけ、語彙を増やし、物事の見方や考え方を学んでいく。
そこに十分な時間がかけられたとき、その相手やそこにあるモノ、それを包む空間は、その子になじみ、構えなくてよくなり、自分が自分でいられるようになり、居場所になる。』
湯浅誠,子どもの貧困 「居場所」とは何か? 居場所が提供するもの、そして問うもの,Yahoo!ニュース,2017

この湯浅氏の考えの前半部分は、狭義の居場所の説明として納得感がある。なぜなら、事業としての居場所には、必ず子ども・若者の相手(=支援者)がいるからだ。
一方で、広義の居場所には必ずしも相手がいるわけではないので、この説明が当てはまらない居場所も少なからずあると思う。
ただ、「その子(=自分)になじみ、構えなくてよくなり、自分が自分でいられるようになる」という部分は、広義の居場所も含めた、全ての居場所に共通する条件と言えそうだ。

つまり、ある人にとって、自分の「したい・ありたい」ことが受容されていると感じられる場所が、その人にとっての居場所であると言えるのではないだろうか。
もっとも、ここでいう「したい・ありたい」ことは、「将来こんなことをやりたい・こんな人でありたい」というような、“リッパな”見通しだけを指すわけではないということである。
例えば、「さしあたりゆっくりしたい」だったり「とりあえず今はこれがしたい」というような、他者から無駄だったり、思いつきに見えることも、その人にとっての立派な「したい・ありたい」ことである。
そんな身近な「したい・ありたい」ことも含めて、他者に迷惑を及ぼさない範囲で許容するのが、全ての居場所に共通の条件ということなのではないか。

事業としての居場所の価値
居場所が居場所であるための条件が、そこを訪れる人の「したい・ありたい」を受容することと考えると、前述の湯浅氏の指摘する居場所(事業としての居場所支援)における支援者の役割の大事さがわかってくる。

事業としての居場所には、ただ場所があるだけではなく、自分と向き合ってくれる他者(=支援者)がいる。
支援者に勉強を教えてもらったり、一緒にゲームをしたり、恋愛や人間関係の悩みについて気軽な風を装って相談したり。
そんな支援者との対話の中で、彼らはちょっと元気になったり、勇気づけられたり、やりたいことが明確になってきたりするのである。

サンカクシャ居場所

☝NPO法人サンカクシャの居場所にて
スタッフと一緒に動画編集を体験する若者

つまり、支援者の存在が、子ども・若者の「したい・ありたい」ことを「ブースト(促進)」するのだ。
訪れた人の「したい・ありたい」を受け止め、時に伴走して応援してあげるということが、そういった機会に恵まれなかった人にとっては得難い経験であり、成長するための心強いサポートになる。
人は一人でも思索を深めることで成長していけると個人的には思うけれど、そこに対話者や応援者がいれば成長は加速する。
支援者のいる居場所という、事業としての居場所の存在意義はそこにある。

子ども・若者に対する、本人置き去りの期待にあふれた今の社会で、彼等自身の中から生まれてくる「したい・ありたい」について対話し、背中を押してあげられる、数少ない場所のひとつが居場所なのである。

居場所支援の今後
しかしながら、事業としての居場所の運営には、そのユニークな位置づけゆえの難しさもある。一つは、居場所事業の評価の難しさである。

学習支援であれば、学習の到達度や進学といった視点で支援の成果を評価できる。
就労支援も資格の取得数や就労に繋がった人数などで活動の成果を測ることができる。
しかし、利用者個々人の「したい・ありたい」を尊重する居場所の場合は、これらの視点で成果を測りきることが難しい。

一方で、居場所の多くが行政の助成事業や委託事業の枠内で運営されている以上、成果を説明することが求められる。
だから多くの居場所では、そこで提供される就学支援や就労支援といった活動に関する成果を示すことで対応している。
本質的な活動に対する評価の難しさを抱えながら運営されているのが、事業としての居場所の実情である。

そんな中で、居場所の成果を捉え直そうという動きもある。
例えば、北九州市と同市の子ども・若者総合相談窓口である「子ども・若者応援センター『YELL』」では、以前から、同センターを利用する子ども・若者の行動や気持ちの変化を成果指標として取り入れてきた。
ともすれば、利用者数のような量的な指標が選択されがちな中、質的な面を評価する同市の取り組みは非常に稀有な取り組みであると言える。

エール

☝北九州市子ども・若者応援センター「YELL」
北九州市との信頼関係の中で構築された成果指標は先進的

また、東京都豊島区・文京区をベースに活動しているNPOサンカクシャでは、居場所とは「他者に頼りながらも自立していく場所」なのではないか、という仮説のもとに、居場所での子ども・若者の行動の変化を成果として捉えようとしている。

このように、本人の行動に着目し、成果として捉えるという方法は、客観性の面で評価が難しいという指摘はあるものの、居場所の活動を把握するという点で、もっと肯定的に捉えられても良いのではないか。

事業としての居場所が直面しているもう一つの課題に、昨今のコロナウィルスへの対応が挙げられる。
コロナウィルスの感染を防ぐため、全国レベルで外出自粛が求められ、居場所の運営はさらに困難になってきている。2020年5月現在、国の緊急事態宣言は解除されつつあるが、居場所の活動がコロナ以前と同様に行えるかどうかはわからない。むしろ自粛の傾向は一定程度残っていく可能性の方が高いことを考えると、居場所支援も、社会の変化に対応する形で、その在り方を変えていく必要があるだろう。
一部の居場所がオンライン化しつつあるというのは、そういった変化への対応の表れであると言える。
例えば、東京都を中心に若者の自立支援を行うNPO育て上げネットは、一部の相談支援をオンラインで行ったり、オンラインゲームを一緒に遊ぶ機会を提供したりといったことを試行的に行っている。

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☝オンラインゲームソフト「あつまれどうぶつの森」を使った
オンラインコミュニティの取り組み

オンラインによる支援は今後さらに存在感を増していくと思われる。
しかし、ただでさえ居場所の成果が把握しづらいというのに、オンライン化した「子ども・若者がその場にいない居場所」の活動をどのように評価すればよいのだろうか。
対応方針が示されるのはもう少し先のことになるだろう。

居場所と自立
私はこれまで、冒頭で紹介した自分が研究室で寝泊まりしていた行動の理由を、単純に非日常の経験を楽しみたかったからだろうと思っていた。
確かに研究室に寝袋を持参しカップラーメンをすする生活は、キャンプのような興奮がある(アウトドアとは真逆の環境だが)。研究に邁進する研究者っぽい満足感もある(匍匐前進ほどの距離も稼げなかったが)。

しかし、私が一見して無駄とも思える時間を研究室で過ごそうとした背景には、とりあえずでも自分が「したい・ありたい」活動を持ち込むことで、研究室を自分の居場所にしたいという願望があったのかもしれない。
そして、その時は早々に退室したわけだけど、その生活を続けていたら、いつの日か研究室が自分の居場所と感じられる日が来たのかもしれない、と思うようになった。

色々な「したい・ありたい」を受け入れられる場所かどうかが、その場所が居場所になりうるかどうかの境界線になる。
研究室がその役割を担う必要性はもちろん、ない。しかし、少なくとも事業として居場所には、この認識が活動の基礎にあってほしいと思う。
そこに子ども・若者の背中を押してくれる支援者との相互作用が加わると、彼らは自分の中から生まれた「したい・ありたい」ことに向き合い、最初は恐る恐るそろそろと、徐々に積極的に行動していくようになる。

その行動が積み重なっていった先に、実は社会が子ども・若者に求める「自立した状態」が繋がっている。
自立を指向する支援ではない場所の活動が、なぜ子ども・若者の自立に繋がるのか。それは、「したい・ありたい」ことを彼等自身が決めるという、自己決定の経験を積み重ねることが、居場所であればできるからである。

社会で学び、働いていくためには、様々なスキルや学力が必要なことは言うまでもない。
しかしながら、働き方や学び方が多様化している今日、自分で何かを決めた経験を蓄積し、未来の生き方を自分で決めていく事が、社会で自立して生活していくためにより重要になっていくだろう。

居場所での経験だけで、その境地に達するということはあまり無いとは思うけれど、その前段階として、日々の生活の中で、他者から見て無駄にみえるようなことでもいいから「自分が何をしたいか・どうありたいか」を考えられる居場所の存在は、やはり重要なのだろうと思う。

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子どものころに、紙の下に置かれた硬貨を模写するために、紙全体を鉛筆でなぞっていく遊び(?)をされた方は少なからずいらっしゃると思う。
超能力者でもない限り、いきなり硬貨の像を浮き彫りにすることはできない。紙に隠されたコインの像を描き出すためには、一見無駄に見える鉛筆の「行ったり来たり」を繰り返すしかない。
自分の興味関心のあることが何なのか、どうありたいのか、という将来が浮かび上がってくるために必要なのは、こんな「行ったり来たり」なのだと思う。
一見無駄にも見える個々人の「したい・ありたい」の積み重ねた先に、自分なりの未来の像が結ばれるのではないだろうか。
実社会において、そんないったりきたりを許容できる場所はますます少なくなっているけれど、居場所という支援は、それができる数少ない応援の仕方なのではないかと思う。

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