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【エッセイ】不真面目な接着剤

太宰治の小説が好きだ。

特に人間失格や黄金風景、正義と微笑のような太宰本人の口調で書いたであろうものが好きだ。津島修治の書くものが好きなのかもしれない。

ほぼ本人の不平不満で構成された作品もあるが、そこに特有の嫌味な感じがない。これは本当に不思議だった。嫌味な文章を書いているというのにそこに胃もたれするような泥臭さを全く感じない。そういった文体の津島修治が好きなのである。

秋はずるい季節だとか日曜は月曜の気配がして全く安心できないだとか現実の少しばかりの不満を言語化する能力が高く、いつも驚かされる。

私もそうありたいと思って文字と向き合ってみるが難しい。嫌味ったらしいどろどろの冗長な文章ができて嫌になってパソコンをよく閉じている。

文字から逃げて二階の自室から一階のリビングに向かうと両親がいる。

連休期間なのでどちらも揃っている。中学生の頃までは模範的な両親だと考えていた。母は専業主婦として家庭を支え、父は勤勉に仕事に取り組み一家の大黒柱だった。幼いころは遊園地も水族館も旅館も動物園も連れて行ってもらった。子どもから見れば理想の両親だった。 

しかし夫婦としてみると話は別であった。破綻している。喧嘩が絶えないという話ではない。両親が話を成立させている場面はほぼないと言ってもおかしくない。お互い話そうという意識すら感じない。私が一人暮らししていた大学生の頃は全く話さなかったらしい。お互い破綻しているのを隠しもしない。

父が話しかける。私に向かってだが実質はそれを聞き耳たてている母に向かって話しかけている。そして母も話す。私にお父さんにああ言っておいてと実質は父に声をかけている。

私は接着剤だった。親という面でなら二人はパートナーとして成立できる。そのため私がいないとその関係性は解消する。

もう離婚した方が良いんじゃないかと思うものの、父は今は亡き私の祖母、すなわち母の母にこの子をよろしくお願いいたしますと頼まれたために母を見捨てることができず、そして母も生活の基盤を父に預けているがために完全に離れることができずにいる。その破綻夫婦の接着剤が私である。

幼いころを思い出す。昔はまともに両親は喧嘩していた。そこで母は離婚だ!と父にいきりだち、父は私の目をまっすぐ見てどちらについてくるか、と尋ねた。私は離婚しないでとわんわん泣いた。その言葉が強固な接着剤として働き、ここまで来てしまった。

実家で就職したのはその両親を支えようと考えたからだった。自ら接着剤を志願して実家に戻ってきたのだ。しかし今となっては職場で苦痛を受け、帰ったら帰ったでこの接着剤業を行わなければならず心身共に疲れてしまった。

米をつぶしてつけた方がまだ接着剤として価値がある。少なくとも私よりは。こうして自身の中にある粘度もすっかりなくし、リビングに降りてきたは良いものの接着剤にされる気配を感じてまた二階に戻ってきてしまった。

父も母もそういうことは気にせず過ごせと言う、が、鼻炎の時であればなりふり構わず無意識にトイレットペーパーでもティッシュでも手探りするように、この接着剤の役割を両親は無意識に私に求めてくる。

無意識に役割を求めるのは私もそうだ。母には母の役割を求めているだろうし、父には父の役割を求めている。お互いさまと思っているので文句も言いづらく、結局逃げるのみで自室にひきこもりがちになっている。そういう自分も浅ましく嫌だった。

喉が渇いた。これを書き終わったら下に水を取りに行く。今の自分の文章はどろどろしていないだろうかと振り返ってみる。

水になりたかった。文体としてもだが自分の存在意義に関しても。粘度をすべて捨て去り排水溝に流れ、そして旅をしてみたい。排泄物と混じりあっても浄化槽でまた微生物たちがきれいな体に戻してくれるだろう、楽観的な観測。

水になろうと今はただもがいている。そのために本を読む。本を読んでいる間は接着剤としても社会の歯車としても不真面目な自分の存在を忘れることができた。

水になる方法をそこに求めている。清廉な一酸化二水素に成る方法を。にすい、とタイピングして誤ってにそう、と打った。尼僧という予測変換が出て、なるほど精神的に目指しているものはそれかもしれないと変に一人納得した。

Wordの誤変換には辟易することが多いが、不真面目なことで得られる含蓄もあるものだと、そう信じたくて一時保存をして水を取りに行く。できた文章はやはり冗長で泥臭く、体は水を欲していた。

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