「幽囚の心得」第12章 規範の存立根拠 ~合理の裏付けと慣習的価値~(5)
なお、ルールの存立を正当化する合理性の判断においては、様々な要素を多角的に捉えて総合的な考察がなされる必要がある。客観的で公正な視点で物事を捉えねばならない。自らの利益のみを優先した恣意的な考えによってはその判断は何ら説得的なものとはなり得ない。この考慮せねばならない要素を特に「利益」と呼ぶが、判断に必要なのは個別的利益のみならず全体利益も含まれるし、こちら側の利益のみならず相手方の反対利益も勘案した総合的な考慮を要する点には注意をしなければならない。
受刑者と接して感ずることは、皆どこか卑屈な考え方をするところがあるということである。彼らは自身ではそうと自覚していないほど、無意識にそうした自分であることに慣れてしまっている様子であるが、その者の再生のためには、精神を公明正大にして卑屈さを脱却することこそ最もその重要なことなのである。要は心の根のところで、自分に対する自信を十分に持つことができないでいるのである。
しかし本来、自分に対する自信を得るなどということは極めて簡単なことなのだ。それは、卑怯を廃して真正面から等身大の自分のまま課題に体当たりすることで容易に得られるものなのである。自らの限界を超えて物事に当たれる、そのことだけで人は自分の存在を自分で認めることができるようになる。
彼らがその単純な真理に気付かないのは、戦後の物質至上主義の下で、結果や利益(ここでの「利益」は先に用いた意味とはやや異なり、専ら我欲を満たすためのそれである)のみを最優先に求める品性の失われた精神の有り様が蔓延してしまっている現今の社会に浸っているからであると考えられる。
しかし、彼らの望む結果や利益は多くの場合、彼らの手には届かない。真正面から課題に取り組むというその実現のための最も大事な要諦を無視していては当然である。
そもそも斜に構えて格好を取り繕ってもそのような虚構の下では、心は充足しようはずがない。充足しない心は刹那主義、享楽主義に向かい、自らの懶惰を許そうとする弱さへとその者を誘う。卑怯を忌むという価値の在り方を軽視し、そこから目を逸らさせる。そしてまた彼らは成功の場から遠ざかって行く。
こうした惰弱な精神しか持ち合わせていない卑怯者は、他者を圧して自らの存在確証を得ようとすることが間々ある。この種の徒輩は受刑者に非常に多い。彼らは卑怯と評されることこそ最も侮辱的なことだという価値観に直面することから逃避する臆病者であり逃亡者である。私は受刑者に対する矯正教育の在り方としては、只々「卑怯は働くな」というその一辺倒でもよいような気がする。
規範、ルールの存立には合理による裏付けを要すると述べた。しかし一方で、世の中には合理のみでは説明し得ない価値が存することも忘れてはならない。その価値は我々の遠い祖先の時代から長い時間を掛けて、徐々に万人の感性としてある一点に集約されて形成されて来た慣習的価値とも言うべきものである。そしてこの慣習的価値というものは往々にして合理によって説明し得ないものである。そこには我々が郷土において長い歴史の中で築いてきた風土とも言うべきものが存し、これはそもそも理屈によらぬものなのである。合理によらぬかもしれぬが、先人たちがそれが「善」であると認めてきた総意によって、その正当性は概ね担保されていると言ってよい。
更に翻って考えるに、合理の出発点というものはそもそも合理では説明し得ないものであると言わねばならない。人権保障の意義は個人の尊厳の原理に依拠するが、では個人の尊厳が守られると何がよいのか。その人らしく生を全うすることができるからである。では、その人らしく生を全うすることができると何がよいのか。我々はこのように理屈によらず、自分らしく生き切ることで心が充足するのだ。心の充足に理屈は伴わない。よいものはよい。心が満足するものは何と言おうとそうなのだと言うだけである。この合理では説明し切れない慣習的に形成されてきた価値というものは、人間が生きる上で極めて重要なものに私には思えるのだ。