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最終死発電車 第26話『咀嚼』

「清瀬くん、ダメ……!!」

 理性なんて始めから存在していなかったみたいに、頭の中が真っ赤に染まっていた。

 背中に届く高月さんの声が、辛うじて僕の理性を繋ぎとめてくれたのかもしれない。

 いっそ怪異ごと幡垣に体当たりをして殺してやろうなんて、捨て身の戦法が頭を過ったのだが。

 そんなことをしては、高月さんを一人残すことになってしまう。僕は彼女と一緒にこの電車を降りると決めたのに。

「く、そッ!!!!」

 吊り革を強く握り締めた僕は、意を決して怪異を思いきり蹴り上げた。

 右脚の膝から下の皮膚が、黒い液体で溶かされていく。

 強烈な痛みが走るが、宙に浮いた状態だった怪異の身体はボールのように蹴り飛ばされていった。

 怪異が飛んでいった先には、貫通扉を開けようとしている幡垣の姿がある。

 怪異が僕へと襲い掛かった隙に、自分は隣の車両へ逃げ込もうとしていたのだろう。

 けれど、まさか怪異が蹴り飛ばされてくるとは思わなかったらしい。

 僕の声を聞いて振り返った幡垣は、不意打ちを避けることもできず、モロに怪異を受け止める形になった。

「ひぎゃッ!? なん、っ、ァあがあああ!!??」

 怪異に抱き着かれた状態の幡垣は、何が起こったのか理解が追い付いていないのかもしれない。

 喉がちぎれそうなほど叫びながら、方向も定まらず壁や優先席に身体をぶつけている。

 傾斜があるので、優先席の付近は辛うじて黒い液体には浸食されていない。

 それでも、怪異に抱かれた幡垣には足元の状態なんて関係のないことだろう。

「はがっ……は、なせえッ……!! オレは千草とっォ!! ぢぐざああああァァ!!!!」

 妹の名を呼びながら、怪異を剥ぎ取ろうとする幡垣の指がジュウジュウと音を立てて溶けていくのがわかる。

 僕からは見えないが、怪異の腹に生えた無数の手首が幡垣の身体を掴んでいるのかもしれない。あれを引き剥がすのは至難の業だろう。

 そのまま放置していても、いずれは黒い液体に溶かされて幡垣は息絶える。しかし、怪異は抱き着くだけでは満足できないらしい。

 首元にある大きな口が開いたことで、反り返った頭が僕を見てニタリと笑う。その直後、幡垣の頭に思いきり齧りついたのだ。

「あぎっ……!? ォ……あぅ、ゲッ……」

 悲鳴を上げるわけでもなく、意味を成さない言葉を発しながら幡垣の身体がビクビクと震える。

 それから股間の辺りにじわじわと染みが広がっていって、失禁しているのがわかった。

 その状態で通路を後方へと向かってふらふらと移動してきた幡垣は、僕の横を通り過ぎていく。

 彼の頭部は、左半分が不格好に失われてしまっていた。

 未だ纏わりついている怪異は首でグチャグチャと咀嚼音を立てていて、その頭はニタニタといやらしい笑みを浮かべている。

 やがて歩くことのできなくなった幡垣は、通路に溜まる黒い液体の上へと倒れ込んだ。大きく跳ねた黒い飛沫が、周囲に飛び散る。

 喜多川の一件があるとはいえ、あの状態で生きていられる人間はいないだろう。

「い、嫌あっ……!」

「高月さん、今のうちにこっちへ……!!」

 ロングシートの上に座り込んでしまっている高月さんに声を掛けると、彼女はどうにか立ち上がって僕の方へと移動してくる。

 車両の後ろ半分ほどは、もう黒い液体に沈んでしまっている状態だ。僕たちも急いで移動しなければならない。

 幡垣を殺した怪異は未だ彼にしがみついたまま、這いつくばる姿勢でその身体を貪っている。

 身体の部位をちぎり、骨を噛み砕く音が聞こえてきた。

 正確には、食い散らかしているだけなのかもしれない。

 咀嚼された肉片は時折飲み込まれてはいるようなのだが、大半が原型を留めない肉塊となって、床に撒き散らかされているのが見えた。

 肉の焼ける臭いは感じられなくて、もう鼻が麻痺してしまっているのかもしれない。

「っ……」

「高月さん……?」

 怪異がこちらに意識を向ける前に優先席のところまで移動した僕は、高月さんの手を取ろうと腕を伸ばす。

 けれど、僕の腕を掴もうとした彼女は、一瞬なにかを躊躇うみたいに腕を引っ込めたのだ。その表情は、どこか怯えているようにも見える。

「……清瀬くん、なんだか別の人みたいだったね」

「え、僕がですか……?」

「いつもは穏やかなのに、さっきはなんか……ちょっと、怖かった」

 さっきというのは、幡垣を殺そうとした時のことを言っているのだろう。

 僕自身も、こんな風に感情を高ぶらせたのは初めてのことだったかもしれない。

 バイトの最中だって、どんなに理不尽なことがあっても怒ったりすることはなかった。

 店長だってクズだったけれど、客からのクレームだってシフトの度に受けていたのだ。

 不満を溜め込んではいても、それが世の中というものなんだと飲み込んできた。爆発させたことなんか一度だって無かったのに。

「す、すいません。僕、高月さんが危険な目に遭ったのが許せなくて……」

「ううん、私もごめんね。清瀬くんは、私のことを守ろうとしてくれたんだもんね」

 少しだけ困ったように眉尻を下げて、ニコリと笑った高月さんは僕に手を差し出してくれる。

 その腕を引っ張って、二人でどうにか優先席まで辿り着くことができた。

 足元には黒い液体が浸食してきていて、もうすぐ貫通扉の前も立つことができなくなってしまう。

 後ろを振り返ってみると、怪異の身体は半分ほどが黒い液体に埋もれてしまっている。僕たちが移動したことには気づいていないのだろうか?

 肉塊となったであろう幡垣の身体は、もうどこにも見つけることはできない。

「次が先頭車両だ、行きましょう」

「うん」

 どちらにしても、怪異が僕たちに標的を変えないのは好都合だ。隣の車両にさえ移動をすれば、あの怪異が追いかけてくることもないだろう。

 犠牲になった命はあまりにも多いが、僕たちはようやくここまで来ることができた。

 貫通扉の取っ手を掴むと、僕は先頭車両に続く道を開いたのだった。

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