無職雑草記

無職になって1ヶ月が経つ。

別に早急にお金に困ることはないが、家事はしても余力があるのに働かない自分が情けないやら居心地悪いやら、世間に顔向けできないような気がして、最初の2週間ほどは自分の娯楽になるような買い物は一切できなかった。

辞めた仕事のスキルを無くしたくなくて、せっかく頑張って覚えたんだから、と練習して それを収入にしようと考えを巡らせていたが、考えれば考えるほど自信をなくしてしまう。

周囲の人は「ちょっとの間、ゆっくりしたら」と言ってくれたり、遊びやライブに誘ってくれたが、無職なのに遊んでる場合じゃない…と焦ってばかりで 結局なんのリセットもできなかった。

この焦燥感はなんだろう。

前の職場で働いていて、部署は違うけども仲良くしてくれた人の中に「時間のあいだいたらそれでお金になるのにそんな休みまで頑張らなくてもいいのに」というようなことを言われた。
今まで働くというと、「役に立つ」ために働いていて、お金のために働くのはどこか卑しいことのように感じていた。
二つ前の仕事では、やりがいは感じていたが、自分の仕事の内容に対する待遇の低さも感じていて、感謝されるのはありがたいが、疲弊していった。
それが辛くて時給で働ける気軽なノリの量販店に転職したのに、気がついたら休みの日まで練習して、どんなに頑張っても怒られる日々が続いていつのまにかまた、自分の身の丈に合わない疲弊を感じて逃げるように辞めてしまった。

どうしたらちょうどよく働けるのかわからなかった。

お勤めをさせてもらいながら、自分で好きな手芸やアクセサリー作りをして作品を売っていたが、 それも喜んでもらえたり、褒めてもらえたりはするが、値段をなるべく安くつけたい、なんなら無料にしたいという思いと、せっかく頑張って作ったのに安く買い叩かれるのはいやだ、という思いが交錯した。
作品には思い入れがあるが、自信がなかったのだ。
無料なら褒めてもらえて喜んでもらえるが、値段をつけたら「買うほどのものではない」という評価も当然受ける。それが怖かった。

結婚するまでは 幼いときから一人暮らし時代までいつもわりと貧乏だったので、貧乏に対する耐性には自信があったが、自分の働きに対する自信がなかったので、どこに行っても「自分がお役に立てるなら光栄です!」と 給料以上は働いて、仕事に対する不満もいわず、休日も勉強に使い、小遣いも仕事用具に使い、それでも自信がなくていつもビクビクしてたように思う。

今、無職になってみて「こんなことを仕事に活かしたい」と思うことはたくさんあるが、自分自身がやりたいことについて、「そんなことして何になる?」「遊んでる場合じゃない」と責め立てる自分がいた。
それとは別で、とにかくお金にならなくて誰の役にもたたない楽しいことをやって気持ちをリセットしなくては!という焦りもあった。
何の役にも立たない好きな絵をかこう、という時間を作ってみたり、「ストレスをリセットするぬりえ」などというものも購入してみたが、やればやるほど「こんなことしていてはいけない」という罪悪感にがんじがらめになり、ついには「一生懸命 お金にならない 価値のないことを頑張ってやって、身体と心を休めなければ!」と躍起になった。
我ながらどうかしている。
この罪悪感はなんなのか。
それで「お金にならないことはしてはいけないことなのか?」という疑問が湧いてきた。

私はずっと無意識に「お金にならないことには価値がない」という気持ちと「お金がほしくて頑張るなんて卑しい」という気持ちの板挟みになっていた。
本当は「お金さえもらえたらそれでいい」と気軽に働いて、働いたお金を 誰も褒めてくれないなんの価値もないことに使って自由に遊んでいる人がうらやましかった。

そういう気軽な人になりたいのにどうしてなれないのだろうと1ヶ月間いろいろ考えてきたが、1番の要因は自信のなさだと最近きづきはじめた。

本来なら労働やサービスをお金に変える働き方をしているつもりなのに、自分の「市場価値」を見つめて値段をつけて認めてもらえるか試す場にしていたから、うまくお金を循環できないし、働いても働いても気持ちが焦るのではないだろうか。

何年か前に「笑っていいとも」の最終回を見たとき、タモリさんはすごいなと、とても感動した。
私はいつも職場では120%頑張って、完璧以上じゃないといけない、といつも気を張っていたので、たまにとんでもなく体調を崩してしまったりしていた。
タモリさんは「仕事を全力でやるなんてバカ」と言っていた。
全力じゃないからこそ、長い間よどみなくやれて、完璧じゃないからこそ愛されて、そういう人がうらやましい。
自分もそういう働き方をしたい、と熱望したが、どうしたらそうできるかわからなかったし、自分自身とは「キャラクターがちがうのだ」と半ば諦めていた。

でも、今無職になってみて自分は仕事にアイデンティティを求めているからうまくいかないのだということがうっすら見えてきた。

お金にならなくても私は私でいても別にいいし、生きていても別にいい。

そういう考えに至るまで、いや至ってもなお、「このままじゃだめだ」と焦る気持ちはある。
でも、働いている時間以外も私は生きている。

例えば時給1000円で働いたとして、私の生きている時間全部が1000円の価値があるのかというとそうではない。
ある人にとってはお金には変え難い尊いものだろうし、ある人にとってはまるで価値のないものだろう。

私だけでなくすべての人がお金では割り切れない価値を生きている。

私もそのひとりなのだ。

働くことは自分自身の価値に値段をつけることではない。

その時その場にニーズがある「行動」に値段がついているだけで、それは私自身の値段ではない。

そのことに気がつくまでずいぶん遠回りをしてしまった。

自分の価値は誰かに値段をつけて決めてもらうものではない。
あらゆる人にとってただの石ころでもゴミでも、自分にとっては宝物、と自分自身が思えなければ、私自身がかわいそうだし、私を大切にしてくれる人たちにも申し訳が立たない。

働いているときはよく、通勤する道に咲いている雑草や、生えているつくしに癒しや力をもらった。

誰のためじゃなくてもなんの価値もなくても、そこにいてもいいということが誰かの勇気になったり心をあたためることもあると思う。

そういう雑草みたいな感じにしなやかに生きたいなーと思ったので忘れないうちに書いた次第。



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