呪いの話

お金と数字の話がとてもにがてだ。

「金儲けの話」と聞いただけで胡散臭いし、嫌だなあ関わりたくないぜ、と思ってしまう。
どういったわけか、「お金持ち」というだけでなんだか悪い人のような気がするし、童話に出てくる悪いキツネや、歴史の教科書に載っていたお札を燃やして「ほおら、あかるくなっただらう」と部屋を照らす太った成金のおじさんを想像して、うすら寒い気持ちになる。

しかし、実際に今まで生きてくる中で出会った人たちのうち、お金持ちで嫌な人という人にあまり会ったことがない。
大抵のお金持ちの人は、話していても、「この人が貧乏でもきっと仲良くなっていただろうな」と思うようないい人ばかりだ。
しかし、私の中のなにかが「お金持ちだから余裕があって、だからいい人なだけで、この人だって貧乏だったらもっと嫌な奴のはずだ」と 用心を怠らない。それが自分でとても嫌だ。

逆に貧乏な人だと、それだけで「苦労を知っている人だ」と親しみを感じ、立派な人なように思ってしまう。
実際には、単純に、働くことや、継続して努力することが嫌いで貧乏な人もいて、そういう人と付き合っていくとだんだん、その場限りの話ばかりをして信用ならないなあ、と感じることが少なくないが、それでもやはり、貧乏というだけで「今は貧しいから気力が湧かないんだな。可能性のある人だ」と思いたがる自分がいる。これはどういったわけなのだろう。

私は幼児教育関連の仕事をしているので、まだこの世に来たばかりの幼いひとたちと関わる機会が多いが、彼らは3歳くらいまでは、わりとお金持ち、しかも王子様やお姫様が好きだ。
しかし5歳くらいになってくると、ちょっとそのへんが複雑になってくる。

この年頃の女の子たちに「お金持ちのお姫様と、貧乏なお姫様と、どっちの役をする?」と聞いてみたことがある。
不思議なことに、女の子たちはみんな、貧乏なお姫様になりたがった。そして、お金持ちのお姫様の役の子は、なぜか「いじわるなお姉さんのお姫様ね」という設定にされた。

お金持ち=いやなやつ というイメージは、小さい時によく触れる童話などによって「作られている」ものなのではないか、と推測した。

キリスト教的 清貧のイメージというか、シンデレラや幸福な王子の話に出てくるような「貧乏でも心が豊かな人たち」が お金持ちよりも他人にたいして 譲る気持ちが強い設定になっていて、それゆえに 貧乏=清らか、お金持ち=いやなやつ というイメージかできあがっていくのではないか。

小さい時にイメージとして定着したものというのは恐ろしいもので、私たちは知らず知らずのうちに、小さい頃に埋め込まれたイメージから抜け出せずにいる場合がある。

私は、お金には余裕があったら嬉しいが、あまりたくさんのお金は欲しいとは思わない。
たくさんお金が手に入ったが最後、いやなやつになり、お金を無駄に湯水のように使い、友人に裏切られ、家族を足蹴にし、最後はお金を使い切って、手元にはお金はおろか、貧乏だったころに持っていた物もすべて、失ってしまいそうな気がする。だからほしくない。

でも実際、ちょっとお金に余裕があったら何をするかな?と考えてみると、家族と旅行に行ったりする以外はいつも通りにするだろうと思う。
それなのに大金持ちになったらと想像すると、自分の元の人格を完全に無視して「絶対にわるいやつになってしまう」というイメージしかできないのはどういったわけなのだろう。

こういう不思議な「呪い」に似た概念が 私たちの周りにはたくさん存在する。

あるときふと、「これは常識でも事実でもなく、ただの思い込みなのではないのだろうか」と気がついて驚く。
驚きながらも紐解いていくと、たいていはただの勘違いだが、いくつかは強烈な呪いにもなっていて、もう勘違いだと気がついているのに、なかなかそれを正すことができない。

例えば「母親は子どもを産んだら子どもを自分より大事に思う」という呪いがある。
ここに父親の存在はない。
大抵の場合は 出産経験のない人たちの中でまことしやかに語られて、強く信じられている。

実際には出産しても母性なんか目覚めなかった、という人はわりといるが、そんなことを言うともう、世の中からつまはじきにされてしまう。

小学生のとき、クラスで飼っていたハムスターの母親が 生まれてきたばかりの自分の子どもをむしゃむしゃ食べてしまうのをみたことがある。
先生は「他の子どもたちを守るために、辛いけど小さくて弱い子は食べて殺して栄養にして、お乳をださなきゃみんな死んでしまうからね。母親というのは時に残酷にならなきゃいけないの」というような話をした。

しかしながら、ハムスターの母親は、生まれてきたハムスターの赤ん坊を 一匹残らず食べてしまった。

美談でもなんでもなく、単なる習性、単なる食欲である。

しかし、子どもというのは「おはなし」が好きで、ちゃんと道理も意味もオチもあるおはなしにして、納得して答えを聞きたがるものだから、つい、先生側も「やさしくていい話」にして聞かせたがってしまう。

子どものときはそれでもいいかもしれないが、よろしくないのは 大人になっても こういう「おはなしの世界」に呪われてしまうことだ。
大人どうしでそういう神話のような科学的になんの根拠もない「美談」で呪いあって みずからの心をがんじがらめにしてしまう。それはとても苦しいことだと思う。

世の中には間違ってる不条理な「おはなしの中」ではありえないことがたくさんある。
でも、そういう世界で私たちは生きている。

すごく良いことばかりしている親切な優しい人も事故にあって死んだり泥棒や痴漢にあうこともあるし、ずるいことばかりしている悪い嫌なやつなのにいつもおいしい思いをしているやつも、悔しいけどいるにはいるのだ。

だからって良いことをしては損ということでもなく、ただ良いことをして努力をしていると心持ちがよいのでそうしたほうがいいんじゃない、というだけでいい人でいてもいいんじゃないだろうか。

なにせキョーレツな呪いゆえ、解くのはとても難しいが、私は「お金持ち=いやなやつ」と「母親=子どもがなによりたいせつ」という呪いとは戦っていきたいなと思う。

とりあえず、おかねほしいなーと平気で言えるくらいにはなりたいものだ。

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