願いとしぬこと

どんなに切に願いを持って掲げていても、その手に力が入らなくなり、涙が視界を覆い、自分の無力さに打ちのめされる。そんなことが人生で幾度となく訪れ、その度に私は歯を食いしばりながら道端で立ち尽くしてしまう。早く家に帰らなきゃ。

自分が持つ信念や願い、希望をどんなに口で語ったとしても、それはいつかへの期待であって、現実を生きているだけでは叶わないこともある。それに伴う行動や意思表示や、常にそれを忘れないように生きなきゃ。

命が終わること、いつか死ぬことはわかっているのに、どうして失くした時に平気でいられないんだろう。それが自分の思うタイミングでなかったとか、ああその時期はもうすぐだとか。心構えがあれば少しは大丈夫なのだとしたら。明日みんな死んでしまうから、そう思って生きれば平気になれるのかな。

それとも、死んでしまったという状態を目の前にした時にしか、本当は何もわかっていないのかもしれない。その時にならないと、何も実感できないのかもしれない。

ああもうこの顔が皺を寄せて笑顔になることはないんだ。
ああもうこの口から、この人の声が空気を震わすことはないのか。
ああもうこの手は、私の手を握り返して想いを伝えてくれることはないのか。

そうやって、実感しないことには。


どんなに辛いことがあって、自分の身体と心がバラバラになって、刻まれるような痛みに息ができない時が訪れるとしても、自分で選ぶことはしない。これはもう揺らがない私の約束。

どんな形でどんなにたくさん深く愛が与えられても、その人の心が求める形の愛が違うのだとしたら、その心は埋まらないまま。その愛すらどう受け取っていいのかわからなくなるのかもしれない。

黒い大きな犬が、心に棲んでいるなら。

尊重することが、その人の幸せなら、選んであげたいと思えるだろうか。どんな最後を迎えることになろうとも。私たちには引き止める術はないのだろうか。相手の揺るぎない心が、この世界との約束すら破りたい、それが何よりの願いで、生きてきて一番大切なことなのだと。愛する人がそう言うのなら、私にはそれを引き止めていいのだろうか。私は引き止められないと思っていたけど。だけど。

その願いが、氷で出来ているのなら、温かいココアを淹れてあげようか。
その願いが、岩で出来ているのなら、冷たい表面を撫でてあげようか。
その願いが、泥で出来ているのなら、掬って抱きしめてあげようか。

諦めるくらいなら、見届けさせてね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?