祖母が私の心を浸す
最近朝ごはんに食べることにした。朝食後に薬を飲む習慣ができたためだ。
私はごはんのお供に、シャケフレーク、たらこ、納豆を用意した。その日の気分でどれかをご飯とと一緒に食べている。
今朝は納豆の気分だった。脆く白いケースを開け、薄いカバーを外す。たれを入れて、そのまま箸でかき混ぜる。
『そんな真っ白になるまで混ぜなくたっていいでしょう』
一人でいるはずの食卓に、ふと顔をあげると祖母と祖父がいた。
みんなが適度に食べ始めている中、祖父が無心で納豆をかき混ぜている。見かねた祖母がそれを叱るようにぴしゃりと言った。両親と姉は、糸で真っ白になった祖父の手元の納豆を見て笑っていた。
『よく混ぜた方がおいしいんだよう』
そう言ってさらに混ぜる祖父に、祖母も呆れたように少し笑って自分の食事に戻った。
視線を手元に戻し、私は納豆をぐるぐるとかき混ぜる。私の手はあの頃よりも大きくなって、こぼすこともない。あの白さには程遠い納豆をご飯に乗せて、口に運んだ。
母方の祖父母は都会に住んでいた。祖父母に会いに行く時は決まって外食をして、普段見ない都会に出歩くので楽しみだった。ただ祖母は躾に厳しいタイプで私はどこかでいつも緊張していた。機嫌を損ねると、姉ばかりとお喋りをして、自分がいない方がいいような気持ちになるのだ。
そんな時、私はダイニングを離れてリビングに行く。リビングで祖父はいつもテレビかラジオで野球を観戦している。
「おっこっちおいでおいで」
私を見ると祖父はいつもニコニコ笑って自分の元へ招き入れた。私は特別野球は好きではないし、なんだったらいつになったら終わるかわからない試合を見続けるのは退屈だったが、祖父と一緒にいればいいのだと自分の居場所にしていた。
祖父は私の味方だった。人参をすすんで食べない私に、祖母が好き嫌いするなと注意する。すると祖父は決まって言うのだ。
「おじいちゃんもな、人参嫌いなんだよお。なんか臭いよなあ。わかるよ」
そしてまたおばあちゃんから叱られて、こっそり目配せをする。
いつも来た時と帰る時に、ハグを求めて、ほっぺにチューしろとせがむ。さすがに中学生以降はしなくなったが、海外旅行が好きだった祖父にとっては一つのコミュニケーションだったのだろうと思う。祖母とは直接触れ合うようなことは記憶に残っていない。
祖父が亡くなったのは、いつだったか。姉が大学生だったのは覚えている。癌で入退院を繰り返していた気がする。母方家族で介護をしていたが、トイレで転んで搬送されたと聞いたあと、祖父はそのまま家に戻らなかった。
祖父のお葬式で、出棺するときに祖母はたくさん泣いた。母たちが、もういいでしょ、と言わんばかりに体を支えるも、祖父が眠る棺桶にすがって白いハンカチを握りしめて泣いていた。
祖父と祖母はよく喧嘩をしていたと、母は何度も口にしていた。祖母は元看護師で頭のキレが良く、礼儀や身の振る舞いにとても厳しかった。祖父は事なかれ主義のようなゆるさがあった。それでも祖父はきちんと出世もして、家長としての責任は立派に果たしていたと思う。ただ祖母はよく祖父に文句を言っては喧嘩をふっかけていたと言う。祖父は決まって書斎に逃げ込んでいたそうだ。
「あんなに泣いて縋るなんて思わなかった。あれはやり過ぎよ。たまに演技みたいに可哀想ぶるんだから」
火葬の待機所で、ぼそっと母が言ったことを私は覚えている。母には母なりの家族としての関係性があり、きっと疲れていたのだろう。私はただ聞き流して、人の骨を見るってどんな感覚なんだろうと考えていた。
実際、祖父の骨は箸ごしにわかる程にとても乾いていて、白く、軽くも重くもなかった。人はこうやって終わるのかと、あまりにあっけなく、風に吹かれたら記憶の遠くへ行ってしまいそうな気がした。
祖母は、母の妹と二人で暮らした。祖父と暮らした一軒家にそのまま。父と母は離婚し、母は実家に戻ったがいろいろな手続きを済ませて縁を切るように出ていった。それでも祖母は、季節毎の贈り物を私や姉の元に送ることを欠かさなかった。年末年始には松前漬け、誕生日やお中元には焼き菓子を、百貨店を経由して届けられて、たまにお礼の電話をして少しだけ話した。
『元気?』
『元気だよ。元気?』
『元気だよ』
『よかった。ありがとうね』
『いえいえ。風邪引いちゃだめよ』
『おばあちゃんも体に気をつけてね。』
『はいはい。』
『はーい。それじゃあね』
『またね』
本当に簡単な、毎度変わらない、果たしてこの会話に大きな意味があるのかどうかさえわからない。そんな会話を年に数回した。
祖母が軽い認知症になり始め、持病の心臓もあまり調子がよくない。入退院を繰り返しながら、季節を越していたある冬。とても強い寒波が訪れ、雪が何度か積もったある時。私と姉は突然思い立ち、祖母の認知症に役立つようなドリルや塗り絵、膝掛けやあたたかいインナーやルームウェアを買って家に突撃した。連絡もせず突然に訪問したからか、祖母はインターホン越しに何度も私たちが誰かを確認した。警戒しながらドアを開けた祖母は、笑顔の私たちを見てとても驚きながら、家に入れてくれた。
さすが元看護師なだけあり、祖母は自らでも認知症対策をしていた。毎朝天気予報を見て、その日の天気と気温をメモ帳に書き起こす。それを毎日続けていると教えてくれた。冷蔵庫には、叔母の字で冷蔵庫の中身が書いてあった。私たちが用意したプレゼントを、まあまあと高い声をあげながら開けて、早速あったかい靴下やスリッパを履いたりした。そのままこたつに入って、3人で数独を一緒に解いて遊んだ。しばらくすると叔母が帰宅して、祖母にそっくりな高い声で私たちの訪問を喜んでくれた。
祖母が買ってたたい焼きをみんなで食べ、残りは私と姉が持ち帰ると話しても、1時間くらいすると席を立ち、「たい焼きあるよ」と私たちを振り返った。「さっき食べたよ、まだあるなら持って帰ろうかな」と繰り返した。私はもう祖母に苦手意識はなかった。
叔母も混ざって4人でこたつに入り、叔母の婚活話をせがんだりした。そしてふと私は祖母に聞いたのだ。
「おじいちゃんとおばあちゃんってお見合い?」
「お見合いじゃないわよ。」
「えっじゃあ普通に恋愛結婚?おじいちゃんと恋に落ちたの?」
「恋?恋に落ちて…いや、まあ、ええ?」
「おばあちゃん顔赤くなってきたよ。」
顔を赤くする祖母を3人でからかいながら、恋バナだねと笑った。祖母が可愛く見えて仕方なかった。そして過去に縋り付くように泣いた祖母の姿を思い出して、母の言葉を反芻した。あの涙は、演技ではなかったのかもしれない。
それからまた時は経ち、祖母が入院した。今度はもう家に帰れそうになさそうだと聞き、久しぶりに姉と病院へ会いにいった。ベッドに横たわる祖母は、ぼんやりとしながらも何度か頷いていた。食事もあまり進まず、会話も難しそうだった。看護師さんに「よかったねえお孫さん来て。もう少し食べない?ゼリーだけでもいいから」と口に運んでもらいながら、ゆっくりゼリーを飲み込む細い首を覚えている。
食事が終わったあと、勝手に姉妹で近況を話していると、祖母の目に力が宿った。そして涙を流しながら、私たちの手を握った。どうやら誰かを思い出したようだ。泣きながら、言葉にならない声を出しながら、私と姉の手を交互に握り撫でた。
私たちが帰ったあと、叔母から連絡があった。祖母は私たちが来たことを覚えていて、叔母に話したらしい。先はあまり長くないなら、仕事の合間にまた会いに行けたらと私からも伝えた。
そしてクリスマス。仕事の休憩入った時に叔母からの着信履歴と留守電が残っているスマホを見て、言葉を失った。こんな寒い日に、こんなに賑わっている日に。そうかあ。深呼吸を何度かして、繁忙期のために通夜と葬式の日程次第では参加できない旨をメールした。
四十九日に祖母のお墓参りをして、叔母夫婦と叔母と食事をしていると、姉から姪っ子の誕生を知らせる連絡が入り、その場で喜んだ。
そのまま、時は進んだ。身内に何かあるとき、親戚同士は特別な関係性を感じずにはいられず、私たちは家族だと口にしたけれど。結局その後、連絡を交わしてはいない。
当時私は百貨店のとある店舗に勤務していた。平日のまばらな人の流れを見ながら、仕事をしていると、ふと目に入った年配の女性にはっと心が踊りかけた。祖母に似ている。そしてまたはっとする。ああもう会えないのだ、と。今後似ている人を見かけても、それは祖母ではない。もう二度と。
特別好きだったとか、寂しいとか、そういう感情ではない。
ただ。ただただ、ああもう会えないのだなあと思うと、涙が込み上げてくるようになった。両親の祖父母はもうみんないない。でもこれは母方の祖母のことを思う時しか湧かない感情だ。
人はいつか死ぬのだと、割り切って生きている。だから父方の祖母が一番遅く亡くなった時も、まあそうだろうな、としか思わなかった。仕方ないと思うようにしている。そしていつか両親が亡くなる時も、きっとそう捉えて、涙するとしても解放される安堵のために少しだけだろうと考えるほどに。
それなのに。彼女のことを思うと、なんだか不思議と「もう会えないのだ」と思い、涙が出る。私が大人になったからか、もっと聞いてみたかった。祖父のどこが好きだったのか、祖母にとって自分の家族はどんな存在なのか、それだけ厳しく強く生き続けるには何が必要だったのか。もっと話してみたかったのかもしれない。苦手意識のあった過去を塗り替えて、これから知り合いたかったのかもしれない。人として、向き合ってみたかったのかもしれない。
もうすぐ祖母の命日だ。祖父母が、私を思い出しているのだろうか。
今になって私をこんなにも繋ぎ止める不思議な存在だ。
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