理想を生きて何が悪い、という怒り

夢を見ているような理想。そんな言葉を思い出す。
そんな理想の中に生きていて、何が悪いのだ。そう言いたくなった。美しいものに、美しい言葉に包まれて生きることの何が悪いのだ。
私は現実を生きるのには弱すぎたのだろうか。

幼少期、ディズニーとジブリばかり見ていた。特にディズニーからは、音楽と人生は共にあり、時に自分を高め、慰め、歩き進み続けるのだと私は教わって生きてきた。自分の信念を貫き、悪の手から逃れる勇気を持つ。決して諦めることなく、信じていればきっと道は開ける。その強さを私は作品から教わった。
特に宗教的な信念が背景にあったこともあり、当時の私にはしっくりきた。

学生時代は小説やドラマ・映画に没頭した。そのままフィクションの世界にのめり込み、そこに描かれる人間模様に心を打たれ、そして人間を知った。自分以外の思想や信念を知る機会に最も適していた。もちろん現実の人間関係もあったが、どうしても理解し合うには足りないものが多かった。

私の家族は普通の家庭ではないという自意識も強くあった。他の家庭とは違うことを教わっていて、だからこそ理解の壁があるのだろうと思っていた。それでも私は声をあげることを止めなかったし、それを強く非難されることもなかった。むしろ正論。いや、正論すぎるし頑固だと言われた。そう言う大人を私はいっそ笑った。それは当人の妥協じゃないかと。どうして正しさを選ぶことを躊躇するのか、曖昧にして一体何が変わるのか。波風立てたくないという大人の勝手だった。

社会に出るようになり、私はあまりに多くの人が曖昧の中で漂っているのを目にしてきた。そして世の中でうまくやっていくには、そういった方法も必要な時があるんだと変に納得してしまった。学生時代ほどに声をあげることはしなくなった。ただ自分の行動だけは、自分が触れる範囲だけは守っていた。周りの人間はそんな私をきちんと評価してくれたし、信頼を得た。
たとえ私のことを無条件に嫌う人間がいたとしても、その人が私を責めるようなボロは出さなかった。そういう人の前でこそ、私は真っ直ぐであろうと努めた。どんな感情があれど困難な時に信頼してもらえるように。その時に鍵になるのは、言葉を交わした数や時間ではなく、行動で示せるかどうかだ。言われたことは素直に聞き、必要なことは自ら率先してやる。苦手な人といる時ほど私は丁寧に、着実にやるべきことをこなす。その人が私のことを嫌う理由が、個人的な感情だけで済むように。

そんな生き方を続けてきた。今もできることならそうしたい。
しかしそこまで気力を回せるほどの気持ちがごっそりなくなってしまった。
心が折れてしまった、という表現がきっと正しい。きっかけはわかっている。疲れてしまったのだ。本当に。取り繕った笑顔を作るのも、自分の違和感を正直に伝えられない、伝えても伝わらないことにも。これまでが恵まれていたというのであれば、それまでなんだろうが。

ただそれが精神的なダメージを超えて身体的に影響を与えるようになって早1年。私は未だ自分を見つけられずにいる。
医者は「これまでの自分」ではなく「これからの自分」を探すようにと言った。でも先生、これまでの自分を私は諦めきれない。

ただ合わない人間を一度に取り込みすぎた。それで片付けられればいい。それが一番わかりやすいのに。
気を使いすぎだとか、いろんなことを考えすぎだとか、もっと楽に生きられるとか。
そんな人生を本当に私が望んでるとでも言いたいのか。
私はこれまでにやってきたことを諦めたくはないのだ。
自分の命をすり減らしてでも、守りたい生き様があるんだ。

(それなのに人に会って笑顔を作る自分を想像すると、げっそりしてしまう自分が本当に嫌だ。)

フィクションの世界は、常にセオリーがあるじゃないか。そこに描かれる世界は、誰もが共感をしてそうありたいと願うからこそ存在している。誰かの理想かもしれないけど、それに賛同する人がいるからこそ世に残る作品となっている。なのに、どうして実践に移そうとすると理想だと言われなければならないのだ。現実を見ろと半笑いを向けられなければならないのだ。現実はそう上手くいかなくて、私たちは妥協と平静でいればいい?それだけで、自分の好きな物事だけ程々に楽しめればいい?
あなたが知るフィクションの登場人物はそのように生きていたのか。
私が知るフィクションは違う。そしてフィクションの中の人間に憧れて何が悪い。私たちは一体作品から何を得たのだ。一時的な笑いや興奮だけなのか?
彼らの生き様や信念を、丸ごと呑み込んで生きていきたいと願ったことはないのか?彼らの語る言葉は誰が作ったというのだ。そこに生きている人間だ。フィクションは想像や空想に留まらない。血の通った人間が作っているのだ。こうあってほしい、という人間の願いに込められた存在なのに。どうして理想だけで片付けられるというのか。

見事に私の信念と私の精神と私の体は分離している。
これが問題だ。私は私を妥協しないと生きていけないのか。
ああ本当に生きるとは厄介だ。

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