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写真論の体を装った小説ーー失われた母を求めて               ロラン・バルト『明るい部屋』

ロラン・バルト最後の著作となった写真評論、バルトによる「写真とは何か」を探る試み。

ロラン・バルト『明るい部屋』花輪光訳 みすず書房

ロラン・バルトの『明るい部屋』は、著者自身が心を動かされる写真、そしてその印象から出発して、主観的感覚の明証性からわかる「写真」とは何かということを説明しようとするバルト最後の著作です。写真論としてはスーザン・ソンタグの『写真論』、ヴァルター・ベンヤミンの『写真小史』に並び、古典的な著作となっています。

第一部で著者は写真から受ける感動を「ストゥディウム」と「プンクトゥム」の二種類に分類します。「ストゥディウム」とは教養や教育、文化といったものから説明される後天的なものが原因となる感動を、「プンクトゥム」とは教育や文化の産物からではなく、説明しようのない襲いかかるような個人的な感動ーー著者はラテン語が意味する通りそれは「私を突き刺すもの」であるとしますーーを指します。

つまり、ストゥディウムとは社会的な一大事を記録したカーターの『ハゲワシと少女』のような写真から受ける印象を、そしてプンクトゥムとは個人的なものであるという点で客観的な例をあげるのは難しくはありますが、例えば恋人のような大切な人の写真を見ることで得られる郷愁のような感覚のことであります。

しかしながら、バルトは第1部の終盤にこのような定義、つまり主観性から出発して定義されたストゥディウムとプンクトゥムは十分な客観性を持ちうるものではないことに不満を持ち、「前言取り消し」を行い、先の二つの議論を否定してしまうのです。

第2部では、バルトは先の否定を踏まえ新たな写真の精髄を模索します。11月のある晩のこと、バルトはついこの間失った母の写真を見返します。そこにバルトは写真のエッセンスを見出すのです。

カメラとはカメラオブスクーラ(暗い部屋)という絵画の技術から発展したものと言われていますが、バルトは写真とは化学者が作ったものと主張します。

というのも、写真はフィルムがとらえた光の情報を現像(レヴェレ=明らかにする)したものであるからです。つまり、写真とは「かつてそこにあったもの」の光の情報=姿を捉え私たちに提示する「明るい部屋」なのです。

バルトは、写真に写ったバルトの知るべくもない幼い頃の母のまなざしから、現代の彼にたどり着く瞳の光を見出したのです。

写真とは明証的に絶対的な過去性を指し示すものであり、写真にうつされたものが「かつてそこにあたった」ことを見るものに伝えます。それはひいては被写体の死を意味することであります。

ところで、この死とは演出されたような劇的な死ではなく、「平板な死」であります。写真は写されたものを無慈悲に表現する現実をそのままに切り取ったものであり、そこには絵画のような想像の余地もなく、付随するストーリーというものも本来的には存在しないメディアであるからです。バルトの記号論的な議論との関連で言えば、写真とはそれ自身しか指示しないシニフィエとシニフィアンが決定的に癒着したものと言えるでしょう。

こうして著者は写真が絶対的な過去性=死を指し示すものであると明証的な写真の定義を見出すのです。こうして見いだされた写真の存在は、客観的なものであると同時に個人の感情、間投詞的なものを要求するという点で、それは狂気的なものとなります。それを、バルトは「写真のエクスタシー」と名付け本書を終えます。

『明るい部屋』はバルトの評論作品のひとつですがその筆致は、晩年のバルトが小説を書くことを目指していたように、評論的であるというよりは文学的です。母の喪失から、写真を通して母を再び見出すという構造はプルーストの『失われた時を求めて』をなぞるものです。筆致のやさしさは、まさに亡くしてしまった母をエクリチュールの営為によって永遠化させようとする追悼の心情の現れと言えるのではないでしょうか。作品の大意の部分以外にも写真というものがいかなるものであるかの有益な分析はふんだんにあるのですが、『明るい部屋』は単にそれにとどまることのない感動的な作品です(つまりそれが『明るい部屋』は小説作品であるという言説の所以なのですが)。

そして、もうひとつ忘れてはならないのが、バルトによる現代社会に対して鳴らす警鐘です。写真とは本来上記のような狂気的なものであるはずなのですが、現代社会は写真を支配の道具とするためにその側面を弱体化させようとします。その方策とは写真を大衆化し、一般化し、平凡なものにすることで写真より他に映像(視覚的メディア)を存在させないようにすることです。そうすれば写真というものの特異性はなくなります。写真に映し出されたイメージが先行し、そこでは現実とイメージの力関係が逆転、イメージ優位の社会が生まれるのです。きっとそこには本物の生活というものは存在しなくなるでしょう(というかまさにバルトが危惧していた社会にとうの私達の社会はなってしまったのですが…)。

写真論、小説、現代思想の書としても読み解ける『明るい部屋』、みなさんもお手にとってはいかがでしょうか。バルトの著作の中でも比較的平易なのでよみやすくオススメです。

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