大学生になった途端に授業を切って油そば食べに行くのは、大学が「都市的」だから説。

小中高、そして会社は村落的で、大学の講義は都市的。恐らくこれが、真面目だった人が大学生になってから授業を切って油そばを食べに行く根本的な理由だと思う。
そして、日本人が何となく調和を大事にして、尖った人が出てこないのも、恐らく学校が都市社会学で言う村落的機能を有しているからだ。
A君が授業サボってゲーセン行ってたら、A君のクラスメイトはもとより、果ては売店のおばちゃんまで「A君は授業サボる問題児」という認識が広がる。その目で見てくる。A君を群衆の一員ではなく、A君として見てくる。そうして、生徒は全人的なコミュニティの中で生活するなかで、自然と村落的価値観を有した方が生きやすくなる。
けれど、大学生になると、途端に村落的な要素がなくなり、極めて都市的な環境になる。
油そば食ってようが、何しようが、大講義室で授業を受けてる面々はA君の事なんて知らない。極論、A君が死んでたって、誰も気づかない。構内のコンビニのフィリピン人もA君を誰かわからないし、客という形に一般化される。
都市的な大学においては、A君が何しようが生きてようが死んでようがみんな「別にどーだっていい」(もちろん死んだ事を知れば道徳的に不憫には思うだろうけれど)
すると、自分の行動の責任は自分が取れば十分になるので、好き勝手できる。するしないは別として。
(少人数のゼミは村落的に思う。なので、ゼミを切る人はそんなにいなかった記憶がある。)
恐らく村落的価値観が合わなかった人、掃除当番だの、体育祭だの、総じて苦痛だった人には、大学の都市的な環境は、大変生きやすい環境であると思われる。
とはいえ、その後に待っている、社会人生活はプライベートは都市的な一方で、会社には村落的な面もある。平均寿命まで生きる前提で、人生全体を考えると、社会人生活が一番長くなるはずなので、ある程度村落的価値観を許容し、対応できないと、「なんだか職場で生きづらい」という状況になってしまう。
もちろん、プライベートで都市的な環境にどっぷり浸かり、やれるだけ自分の好きなことをやることで、村落的価値観に疲弊した自分を回復させることも出来るだろうが、そこには持続可能性があるのだろうか。
村落的な環境が合わない人の中には、会社が村落的な面を有しているから、会社をやめて地方でお店でもやろう!という人もいるだろうが、場所を間違えれば、プライベートまで村落的な環境に浸かる可能性がある。
そうなると、都市で一人でコンセプト特化した雑貨屋を開く、みたいな生き方が、非全人的という点でも、下位文化の許容という点でも、恐らく最も都市的なのかもしれない。

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