見出し画像

2/4 人生

中学の授業が終われば地下鉄に乗って栄に向かい、NHKのビルの中で稽古や撮影をして、それが終わったらオアシス21のマックで友達と喋っていた。

中学一年生の時に中学生日記というNHKの名古屋支局が制作している番組のオーディションに受かり、気付いたら割と主要メンバーとして色々な回に出演させて貰っていた。主役をしたのは出会い系カフェにハマりそうになる中学生の役だった。実際に出演者にアンケートが取られ、そこの内容をもとにインタビューなどがあり、テーマにあった子が主要メンバーとして選ばれる。あの時のプロデューサーから自分はどう見られていたんだろうなあとふと思う。

出演者の中でも事務所に所属をしている子は一握りでどこにでもいる普通の中学生が大半だが、2ちゃんねるにスレッドが立ち誰が可愛いとか可愛くないとかを言われたり、友人と共に作ったHPが何故か掲示板に晒されたりしていたので、なんだかその時期はとても不思議な気持ちだった。一応出演料も貰えて中学生にしてはいいお小遣いだったのでそのお金を使って出演者の子たちと遊ぶようになった。

私は当時家庭環境があまり良くなかったので、とにかく家に帰るのが嫌で、ずっと栄に居座って遊んでいた。通っていた中学は真面目な子が多く、番組を通じて出会う子たちと比べると幼く見えた。自然と学校の中よりも外に居場所を求めるようになった。こんな閉じたコミュニティではなく、外の世界に繋がりがある自分が格好いいと思っていたし、そんな自分が好きだった。

高校に上がって中学生日記を卒業した私は、マクドナルドでアルバイトを始めた。アルバイトは禁止の学校だったが多分バレていたとは思う。バイトを始めたきっかけはなんだっただろうか。家計があまりいい状態ではないのも子どもながらに理解していたのでお小遣いを貰わないようにしたかったし、もう学校の中に本当の居場所を作るのはなんとなく諦めていたので、外への繋がりを求めた。

その頃から音楽にもハマり始めていて高校に上がる前後からライブハウスに通うようになった。週に4日アルバイトをして、週に1回はライブハウスに行くような日々が続いていた。私より年上の人たちとつるむことが圧倒的に多くて、そんな人とも関係性をもてている自分が好きだった。


高校1年の夏休みが過ぎた頃、教室に着く直前で過呼吸になり、そこから立ち上がれなくなってしまった。運ばれた先の保健室で声を上げて泣いた。「死にたい」とずっと口にしていた。私は限界だった。本当の自分がどこにいるのか全くわからなくなっていた。死にたかった。こんな人生を辞めてしまいたいと思った。もっと普通に暮らしたいと思った。

それからは学校に行ったり行かなかったり、行っても保健室でずっと寝ていたりするような日々が続いた。体育の授業で楽しそうに運動をするクラスメイトの声を聞きながら「どうして自分はあちら側の人間になれなかったのか」とずっと考えていた。

家族とも会話ができなくなっていた。リストカットをしても死ねないのがわかっているのにずっとカミソリで手首を切っていて、切る場所がなくなって腕も切って、何をしているんだろうなと馬鹿馬鹿しくなった。部屋をぐちゃぐちゃに荒らして、散らばった服の上で寝転んでいたら一日が経っていた。次第に部屋からも出られなくなっていた。

いつ、なぜ、どんなきっかけでそれを思い立ったのかはもう記憶がない。気が付いたら私は集中治療室にいた。周りには管に繋がれてやっと生きている人たちが寝ていて、そして横に憔悴し切った顔の母がいた。私は学校の一番人気のないトイレで大量に薬を飲んで自殺未遂をした。意識がないところを数時間後に発見され、病院へと運ばれた。私が最後に記憶があるところからは一日以上経っていた。私は母に怒られると思った。何故こんなことをするのかと。母は怒らなかった。怒られないことにびっくりしていた。母からは「このまま意識レベルが低下したら、万が一のことも想定してください」と医師から言われたことをその場で告げられた。母は泣いていた。どうして自分はこういう人生しか歩めないんだろうと思った。普通になりたかった。なれなかった。だから死ぬしかなかった。でもその時静かに泣く母の姿を見て、もうこんなことは終わりにして、変わらなきゃいけないと思った。


その時の私にとっては朝ベッドから起き上がることも、朝ごはんを食べることも、制服を着ることも、電車に乗ることも、歩くことも、座り続けることも、誰かと目を合わせることも、何かをノートに書くことも、すべてが大きな挑戦だった。何一つできなかった。でもやらなきゃいけないと思った。吐きながら朝ごはんを食べて、電車に乗っている間、ずっと拳を強く握りしめていた。途中の乗り換え駅で休憩しないと学校へ行けなかった。1時間半で行ける道のりなのに2時間以上かけて通っていた。それでも通った。苦しかった。でも行動を変えないと何も変わらないことだけはわかっていた。不思議なもので行動を変えると少しずつ気持ちもついてきた。苦しい時期を少しずつ乗り越えられるようになっていた。


高校2年生の夏休み、それまでの貯金で東京と京都へひとり旅をした。ぷらっとこだまは18歳以下だと親の同意書がないと買えないので、母親にサインしてもらい、それで東と西へ行った。なぜあの状態の私を母が送り出してくれたのかは分からない。でもそれを送り出せる母はすごいなと思った。

東京でSUMMER SONICというフェスに二日間行った。好きなアーティストを見て回りながら炎天下で夏バテのような症状になる。ポカリをガブ飲みしながら休んで周りを見渡すと酒を飲んで楽しそうにしている大人が沢山いた。自分が今まで悩んでいたことが馬鹿らしくなった。

自分が一つである必要はない。人間は多面的だ。

踊り狂う大人たちを見ながらそう思った。彼らももちろん普段は普通に働いていて、貯めたお金をアルコールに変えて楽しそうにしている。週7日踊り狂っているわけではない。私は家庭が壊れていることを隠しながら普通に学校に通っていることも、学校に内緒でバイトをしていることも、そこで貯めたお金でライブハウスに通っていることも、すべての行為が誰かに対して嘘をついているような気持ちになってしまい、そしてどの自分も自分であるということを受け入れられなかった。でも全部自分なんだ。人間には色々な面があってどの面で今生活するのかでしかないのだとその時に気が付いた。自分が一つである必要はない。親が離婚していることを隠している私も、マクドナルドで笑顔を振り撒く私も、ライブハウスで大はしゃぎする私も全部が私自身であり、それら全部をちゃんと受け入れて愛してあげることが必要なのだと気が付いた。


その後京都へ旅行に行った。当時mixiを通じて仲良くしていたライブ友達が京都の大学へ通っていて、その子に色々なところを案内してもらった。途中でレンガ造りのかっこいい建物を見つけ、それが同志社大学という名の大学であることを知った。何の知識もなかったけれど、単純な憧れでこの大学に行きたいなと思った。

夏休み明け担任に同志社大学に行きたいことを伝えると、今の成績からだとかなり難しいこと、そもそも授業への出席もロクにできていないので進級も危うくなる可能性がなることを伝えられた。悲しい気持ちになったが不思議と諦めるという選択肢は自分の中になかった。

目標ができてからは生きるのが楽だったように思う。そこからの私の人生は母のためと大学に受かるためにあった。母にもう悲しい想いをさせないために変わりたい、そしてその為にも大学に行きたい、そう決意して毎日勉強に励んだ。体調が悪い日もあり、人と話せなくて辛くて死にたい日も沢山あった。でも毎日生きることだけは続けた。そして第一志望の学部に合格した。私はその瞬間「勝った!」と叫んでいたらしい。

受験勉強の記憶も、受験当日のことも合格発表の日も正直あまり覚えていない。母から「勝ったと言っているあなたの姿を見て、自分自身との戦いに勝ったんだなと思ったよ」と言われた。そんな言葉を発した記憶もないぐらい興奮していたので驚いた。

ひとつだけ覚えているのは、私が受験勉強の時に追い詰められ家で泣いてしまいもうどうしようもない、受験なんか辞めたい、死にたいと母に泣きついた時に、母がおもむろに車を出して工業地帯の夜景を見せに行ってくれたことだ。あの時母はドライブ中、特に何も言わずに「私も色々悩むことがあるとこの夜景を見にきている」という話だけをしてくれた。光を見ていると不思議と気持ちが落ち着いた。また頑張ろうと思えた。母はそうやってずっと私に負担をかけないように気を遣いながらも支えてくれていた。


合格した時にその時に仲良くしていた兄の友人から「これからは自分のために人生を生きなね」と言われた。その人には特に自分の色々な話はしていなかったので、そんなことを言われたことに驚いた。確かに私が自殺未遂をした後の人生は母のためにあった。自分のために生きるという発想じたいが私の中にはなく、逆に母のためと思うことでとてつもない負荷を乗り越えることができていた。

その時の私には自分のために人生を生きるということの意味がよく分からなかった。そんな生き方をしたことがなかったから。あれから10年以上が経った。今の私の生き方を見たらあの人は何ていうだろうか。私は私のための人生を今この瞬間も歩めているのだろうか。


人は変われると思う。私自身がそうだったように。保健室のベッドの上で寝転びながら窓の外を眺めるしかなかった私は、大学に受かりその後無事卒業をして今は東京で働いている。人と話すことが怖くて高校時代はマスクをしないと外に出ることができないぐらい対人恐怖症を抱えていた私が営業という人とめちゃめちゃ関わる仕事を経て人事という人の人生とめちゃめちゃ向き合う仕事をしている。

人生はわからないものだなあと思う。あの時の私が今の私を予想できただろうか。確実に言えるのはあの時の私も今の私も同じ人間で、ひとつの人生の延長線上として今の私があるということだ。その事実にいつも励まされる。今までだってたくさん変われたからこれからももっといい方向に人生は変わっていけるんだと思う。そう信じて今も私は生きています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?