見出し画像

4/23 新宿でmorohaと大森靖子を観た

歌舞伎町にある複数のライブハウスで行われるサーキットイベントに行った。morohaや大森靖子が観たくて友達の唯ちゃんに声をかけて2人で行った。morohaはchelmicoと被っていたのでどちらに行くか迷ったけど、今度行くフェスでもchelmicoは観れるしなと思ってmorohaを選んだ。武道館のワンマン以来のmorohaだ。

私は別れてからmorohaを聴くことを避けていて、それは彼らの曲を聴くとどうにも懺悔したい気持ちになるし、自分が辛い時にそんな曲を聴いて大好きな思い入れのある曲たちをその思い出と同化させることを避けたかったからだ。武道館は好きだった人と2人で観に行った。私はずっと応援していたmorohaが武道館でライブをやることも相まって感動して所々泣いていたのだけど、ふと横を見るとその人は寝てしまっていて、無理やり連れてきてしまって悪かったなという気持ちと、少しの憤りと、やるせない孤独感を感じながらライブを観た。

唯ちゃんはchelmicoに行くかどうか悩んでいたし、morohaの熱心なファンではないはずだから、楽しめているかなと心配になり横にいる彼女をふと見ると、腕を組んで睨みつけるかのようにボーカルが歌う姿を観ていて、私はその瞬間に唯ちゃんのことがすごく好きだと思った。

ライブ中、ある曲が始まる前に「この曲が響かない人間になりたかったな」とボーカルのアフロが私たちに語りかけていて、私はあの人とは根本的に何かが合わなかったんだろうなと改めて思った。それでも今この瞬間私の中にあるのは憤りや悲しさではなく、一定理解を示しながらライブについて来てくれたあの人への感謝や、合わない中でも分かり合おうとお互いが努力を積み重ねたその事実に対する喜ばしさのようなものだけだった。もう思い出になってしまったんだな。


ライブが終わって、なんとなく自分は拍手する気が起きなくて、腕を組みながらステージ上を見つめていたら、同じようにステージを眺める唯ちゃんが横にいて、同じような消化不良を起こしているのかもなと思った。ライブ自体はすごくよかったけど、なんとも言えない感情がずっと自分の中にあって、それで喫茶店に入って今日のライブについて唯ちゃんとずっと話していた。

「イケてるやつはみんなchelmicoに行った」とライブの冒頭にボーカルのアフロが言っていて、私はそれを聴いてアフロも大人になったなと思った。多分昔の彼なら「chelmicoに行くやつは全員クズだ!」と叫んでいたんじゃないだろうか。4〜5年前に行ったフェスでmorohaのライブ中に別のステージのリハの音が被っていて、アフロはそれにキレて「うるせえ!黙ってろ!」と叫んでいた。そんな彼を知っているから、もちろんchelmicoと仲が良いからなのかもしれないけど、すごく丸くなったなと思いながらライブを聴いていた。


六文銭という歌は、歌詞の中に武道館という言葉もある通り、武道館のライブを前にして作られた歌で、その曲を武道館のライブでも披露していて、その時私は喜ばしいような、彼らもついにここまできたんだなと、何か親心のようなものを勝手ながら感じていた。

同じ歌を今日聴いて、私は言いようのない違和感を覚えた。怒りや憎しみ、悔しさをエネルギーにして作られる彼らの曲が好きだった。彼らはその曲を届けることで救われる人たちが居るのだという事実にもちろん気が付いていて、その結果武道館という場所に到達した。そしてまた小さなライブハウスをパンパンに埋めながらライブをしている。ただ一度そんな場所に到達した彼らからは、これまでにない、ある種の先輩感、とでもいうのだろうか、そう言ったものを感じ取っていた。アフロはいつも私たちに「同志たちへ」と語りかける。ただ、もう彼らは同志ではなく、先に行ってしまった存在なんだなと思った。

そんな話をしながら、今年出た彼らの新曲の歌詞を改めて喫茶店で見ていると、彼らは家族について書いたものを歌にしていて、ああ、やっぱりこの状況下で向き合いたくなるのは、家族なんだろうなと思った。

怒りや憎しみを超えた先には感謝があるということ、そしてそれについて考える時家族という存在を無視することができないということは、私自身が好きだった人と別れた時にすごく感じたことで、自分と彼らを一緒にするわけではないが、なんとなくそういうことなのかもなと思った。


そんな話をしながら大森靖子を見に行ったら度肝を抜かれてしまって、私たちはZAZEN BOYSも観ずにポカリを飲みながら歌舞伎町をダラダラ歩いて帰った。

今まで食わず嫌いのような感じで、もちろん彼女の存在は知っていたけど、彼女のライブを見たことはなくて、ネット上で見られる言説などから、彼女は排他的で、自分を傷つけながらそれをビジネスにしている自己愛の強い人なのだという印象を勝手に抱いていた。

そんな思いは最初の15分で綺麗に打ち砕かれた。15分間彼女は歌なのか、ただ話しかけているのか、叫んでいるのか、泣いているのかもわからないパフォーマンスをずっと続けていて、でもその一つ一つの言葉はヒリヒリするぐらい生きていて、眠気を感じていたはずなのに、途中から目が離せなくなっていた。

女性のファンだらけなんだと思っていたけど、男性のファンの方も多くて、大森靖子はそこにいる全てを受け入れながら、時に客席を睨みつけるように、時に笑顔で包み込むように音楽を奏でていて、ギター一本をかき鳴らしながら叫ぶ彼女を見て、これが本当のロックンロールだなと思った。

マイクを胸に突きつけ、地声で孤独を叫ぶ彼女の姿を見た時に、彼女はまだ当事者なんだろうなと思った。「もしも子供がうまれてもギターのほうがかわいいんだもの」なんて新宿のライブハウスで言われたらもう好きにならざるを得ないよね。

配信でいろいろなものが見れる時代になったけど、アーティストがファンと呼応する姿や、その場の熱量、足元から伝わる全身を駆け巡るような振動や、うるさいぐらいに鳴り響くギターの音色は実際に現地に行かないと分からないものだ。揺さぶられた私の心や、思わずこぼれた涙、なぜだか昔のことを思い出してどうしようもない気持ちになること、それらはその日その場だからこそ起こり得た化学反応のようなもので、そういう経験に私はずっと支えられているんだと思う。


ひとつ言えるのは同じ日にmorohaと大森靖子を観るのは感情が揺さぶられすぎるので今後二度とやらないということです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?