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好き嫌いはあったほうがいい

小さな頃から食べ物の好き嫌いがないと公言している子どもだった。

好き嫌いについて聞かれると、「ないよ!」と得意げに答えていた。すると大概、大人は驚いてわたしを褒める。「えらいわね」に続いて、うちの子なんて野菜を食べなくてね、と言われることもあって、「大変なんだねー」みたいなわかった風の共感を寄せたりする、たぶん変な子どもでもあった。

10〜20代になっても「好き嫌いがない宣言」は続いた。褒められることこそなくなってきても、好き嫌いがないというと感心される。もっとも、辛いものだけはどう頑張っても食べれなかったので、「辛いもの以外はなんでも食べれます、あっ、あとゲテモノとかは食べたことないですけど」という感じで話していた。

そこでよく説明として添えていた言葉がある。「あんまり進んで食べないものもあるけど、この食べ物はこういう味がするんだ〜って思って食べているんです」。

それって、立派に「嫌い」ってことだ。

このことに、つい最近まで気づかなかった。30代に入った今、夫と食事をしているとよく偏食について言われるようになったのがきっかけかもしれない。

「お漬物、残ってるよ」
「昔からお漬物はあんまり食べないからいいの〜」
「好き嫌いしないで食べたほうがいいよ」
「好き嫌いじゃないよ、お漬物はあんまり食べないだけ」

昨日もこんなやりとりをしていてハッとした。

わたしは、世の中の子どもを育てるお父さんお母さんが、子どもの「好き嫌い」に困っていることを子どもながらの観察から知っていて、「わたしは他の子どもとは違う」と、いい子であることで存在感を示したかったのだろう。そして、仕事に忙しい母が作ってくれる食事は嬉しかったから全部食べたかったし、困らせたくなかったのだと思う。

そうしてわたしは、自分の「嫌い」に鈍感になっていった。

自分と合わないような違和感を無視する姿勢は、食事だけに限らなかったように思う。人付き合いも働き方も「わたしには好き嫌いがないからできるだろう」と思い込もうとして、無理な環境でたくさんつまづいた。

それは、苦手です、いやです、嫌いです、と示せなかったことが原因だ。それどころか、自分の嫌いだという気持ちに気づけていなかったことに根っこがあるような気がする。嫌いなものを嫌いと思い言うことは、なんて難しいんだろうか。


でも30代の今になって、わたしは好き嫌いを楽しんでいる。「生野菜は好きじゃない、火が通っていたほうがいい〜」なんて、贅沢なわがままを言いながら食事をする。自分ってわがままだなぁと実感するのがなぜか少し嬉しい。

好き嫌いに正直になることは、今になってちょっと奇抜な髪型にしてみたり、派手な服を買ってみたりしていることともつながっているような気がする。自分のやりたいことを少しずつやり始められるようになってきたかもしれない。

「素直になる」って、好きも嫌いもビビッドに感じることができる状態なのかもしれない。わたしは、そんな素直でワガママな人間になりたい。それはきっと人生をいい方向に動かすような予感がする。だから、好き嫌いはあったほうがいい。

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