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「あなたが僕に絵を見せてくれたのは初めてですね」

なぜカウンセラーさんに「絵を見せる」ということが思いつかなかったんだろう。今日は愛用しているカメラも見せた。

さらに、座る椅子から見る角度から少し外れたところに、今まで見た覚えがない絵が掛かっていることに気づく。3年以上も通っているカウンセリングルームだ。不思議である。

「あれ、この絵って、前からありましたっけ」

その絵は黒地にりんごのようなもの、白でアルファベットが描いてあった。英語じゃないような気がしたけど、なんとなく意味のない言葉のようにも感じられた。「なんだかカウンセリングっぽくない絵ですね」と思ったままに言う。

カウンセラーさんは「そうかもしれないですね、でも、その絵はずっとそこにありますよ」と答えてくれた。なんで3年以上もの長い間、わたしがこの絵に気づかなかったのかをしばらく考えた。あまりに一生懸命にカウンセラーさんに話そうとして、視界が狭くなっていたのだろうか。


「今まで仕事で描いていた絵はこんな感じで、ついこの間すごく描きたい絵が描けたんです」

一番見せたい絵はスケッチブックに描いてある。スマホで撮影してあるけれど、実物を見てほしくてスケッチブックを開いた。

わたしは前々から子どもの描く絵がすごく好きだ。稲妻みたいな激しくギザギザした線や、一生懸命リアリティを出そうと奮闘した末の手足が棒の人間、大人の「常識」とは違う色使い。自分にもあんな自由な絵が描けたらと思っていた。でも小さい頃は描いていたはずだし、もっと絵を楽しみたくて美術の道に進んだのに。絵はわたしの持つもので一番人に褒められることだったから、ずいぶん早い段階で「遊び」ではなく「処世術」になってしまっていた。褒められそうなものばかり描いていた。何度も描いたセーラームーンは今でもコスチュームを覚えている。

今でも描いた絵は全てSNSにアップするし、それはわたしにとってごく普通のことだ。でも子どもの頃は「ねぇねぇ見て見て!」って親や周りの人に絵を見せていたと思う。今日、カウンセラーさんに見せたのは、多分それに近い気持ちだった気がする。

自分の出生地の種子島の話もした。わたしが生まれた瞬間にいた場所は、長く過ごしていなくても最も大事なところなのかもしれない。

全く知らないフランス語を学ぶことで童心に還ったような気持ちになること、100均で子ども用のおもちゃをよく見ること、あれこれ話したけれど、まだまだ話したいことがたくさんあった。この「話しきれない感じ」も子どものようだと自分で思った。


いつも病院を出て処方箋をもらったあとは、スタバに行く。クリスマス柄のカップに入ったラテを飲みながら、読みかけの岡本太郎さんの本を読んでいたらこんな言葉があった。

大人が大人ぶれば やがて子どもも心得て、わざと子どもを装う。

「子ども時代に子どもとして過ごしてこれなかった」ということにはずっと気づかず、気づいてからもどうしたものかと迷っていた。でも、気づかなかっただけで、わたしは子どもに戻る術をちゃんと持っていた。持ち前の好奇心と、遊び心、絵。そしてそれは、全部これからの芸術活動にフルで活かせると思えたし、自分を表現することが、自分を救う。

たくさんの言葉がわたしを勇気づける。

絶望と憤りの中に、強烈な人生が彩られることもある。

岡本太郎さんの言葉は日本語なので、ずしっと身体が揺さぶられる。翻訳家さんたちのおかげで世界中の人たちの言葉も日本語で読める。だけどわたしは好きな人の言葉をその言語で感じ取りたい。

もちろん岡本太郎さんの言葉も、日本語だからといって甘んじて読みたくない。言語が同じでも、その人の人生で得た価値観から生まれる言葉の意味を決めつけないでいたい。

英語にハマっていた中学生の頃、翻訳家になりたかった。表現は翻訳だと思う。理解されることが癒やされることではないと思えるようになったから、自分の言語を作るような気持ちでつくっていきたい。

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