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外国語と音と、ただ踊っている中で見つかる自分の感情の多いことよ

だーっとさっき友達に英語でメッセージを(やっと)返して、少し落ち着いて久しぶりにnoteを見る。Twitterも今は離れて何かあったら見る程度にしているので、関連してこっちも気づいたらだいぶおやすみしていた。元気です。

わたしは前々から自覚していた感じで、自分の感情を思考で押し込めてしまう癖があり、それを取り出そうとするとまた極端な形で出やすいという傾向がある。取り扱いには気をつけているのだけど、それでも変なところで必要のない我慢を重ねていたりして、またそういうことに自罰的になったりもしていた。

それで「やってしまった…」ということがあると、ひたすら色々混乱しながら試す中でやることが「英語で独り言を言う」「英語話者の友達に英語でメッセージを送る」ということだ。英語の文法に自分の思っていることを収めようとすると、自分の英語力が完全に自由ではないことも含め、とても「手に取れる形になる」感じがするのだ。(フランス語でもある程度作文はできるようになったけれど、それはまだまだ)

わたしは時々、無意識に身につけた「母国語」が怖いと思うことがある。日本語の文脈に重きが置かれている性質や日本文化のコミュニケーションの傾向にも個人的には思うところがあるのだけど、それより「自分が覚えていないうちから身につけてきて人へ伝えられるもの」が暴走する方がずっと怖い。外国語で狙って悪質なことを言うことはわたしにはできないし。

かといってわたしが関わっていきたい人全員と英語でやりとりすればいいかというと、それは違うと思う。外国語が好きなわたしだって、さすがに嫌になることだってあるはずだ。それに日本語話者同士だからこそ共有し合える事柄もたくさんあると思う。それが自覚できないのが、またもどかしいのだけれども。

そんなこんなで、わたしの言葉では人に何を言ってもうまく伝わらないんじゃないか…というときに英語にしてみると、ただわたしはこういうことが怖い、とか、ただ悲しい、とか、そういう簡単にしか言えないことが自分自身を素直にしてくれる。その量の多いこと多いこと。

これをフランス語で書こうとしてみたらどうなるだろうか、なんてことも余裕があるときは試してみる。スペイン語も日課になってきたので、早く作文できるようになりたいな。あとは、数少ないレパートリーの中からピアノを弾いてみたり、歌を歌ってみたり。

「つらいとは…?」「そもそも悲しいとは…?」みたいなところから変に考えを組み立てて、「今できること」をばばばばっと頭の中で考えて自己完結して、それだって悪いことばかりではないけれども、そこによく置き去りにしてしまっている感情がないか気づいたら、振り返ってしゃがみこんで、少し話を聞いてあげる練習をしている。

そのときはきっと、なんの言語で話しかけるかは関係ないんだろう。ただわたしは感情を見出すのが苦手だから、Hi, how's going? とか、 Salut, ça va? とか言ってみて当てはまるものを見つけられればと思っている。うまく人に説明できないわたしの外国語への情熱は、自分の感情と話すためにあるのかもしれない。ただ外国語と音と戯れて、ダンスをしてるうちに涙がこぼれてきたら、たぶんやっとわたしの体が泣けるのだ。

ただ理由をつけずに泣いて欲しくて感情はそこにしゃがみこんでいるのかもしれない。その手をとれるなら、外国語だろうとなんだろうと、人にわかってもらえなかろうと、なんでもいい。

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