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エヴァからの卒業

現在公開中の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を見たが、これで25年の歴史に幕を閉じたのかと思うと、寂しいような、清々しいような感じである。

小学生の頃、父親の部屋にあったエヴァのTVアニメのDVDを手にとってそれを見て以来ずっと見てきたが、庵野監督はエヴァを通して沢山の人の心を動かしてきた。

ただ単に面白いアニメはたくさんあるが、本当に面白いアニメは人の心を動かす。エヴァは設定とか難しい話が多いが、それでも面白いという人が多いのは、わかりにくい・難しいものこそが人の心だからだと思う。エヴァはそういうアニメだ。

エヴァってなんでこんな面白いの?

25年もの間これほどまでに愛されたアニメは数数えるほどしかない。ワクワクするものを作りたい私としては、なぜこんなに愛されるほど面白いのか、なぜこれほど人の心を動かすほどのアニメになったのか、が気になる。

それは、エヴァが庵野監督の人生そのものだからだと思う。

庵野監督の作品は、庵野監督の人生で何か影響を与えた作品・経験のオマージュであり、それは監督自身も言っている。

人間ドラマなんて、そうそうやれるもんじゃないですよ。だって、全然わからない他人を描くってことじゃないですか。
その上で、その関係までも描かなきゃならないって生優しいものじゃないと思いますよ。
「エヴァ」のキャラクターは全員、僕という人格を中心にできている合成人格なんですけれど、コアの部分には僕がいるんですが、平たく言えば僕個人があのフィルムに投影されているってことですね。

エヴァにおいては、庵野監督そのものが投影されている。

作中、主人公シンジが何度もエヴァに乗る・乗らないの葛藤が見られるが、これはエヴァを作る・作らないというのとイコールだと思われる。

「逃げちゃだめだ」というセリフは、エヴァを作ることで生まれてしまった「エヴァ」という作品に対しての責任から、逃げずに自分で作るしかないんだと自分に言い聞かせるものだったんだと思う。

そういう意味で、今回のシン・エヴァはQ公開後の葛藤がすごく表れた作品だった。前作Q公開からシン・エヴァまで10年近くの時間を要したわけだが、その分すごく内容の濃いものだった。

今までエヴァ作品を見てきて、ゲンドウから「大人になれ、シンジ」と言われ続けてきたシンジが、シン・エヴァで「大人になったな、シンジ」と言われた時は、ホントの意味でエヴァが終わるんだなと思った。イマジナリー世界(アニメ)ではなく、リアルの世界の中で立ち直るということで、庵野監督におけるエヴァからの卒業が描かれていた。


自らの手で人生を切り開く

エヴァ作品のみならず、庵野監督の作品において「線路」は重要な意味を持つ。

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庵野監督の過去作品で、「式日」というものがある。この上のポスターはそれをオマージュしたものだろう。

式日は、映画を作るということから逃げる映画監督(庵野監督自身)と現実から逃避する女性が出会い、その女性の映画を作るという映画だ。式日でも、監督と女性が出会うのが線路の上である。

庵野監督は、電車は映画、線路は時間のようなものだと言っている。線路によって電車がコントロールされる感覚が映画に似ているという。

エヴァ作中でも、シンジ(わがままな自分としての庵野監督)が電車の中で何かと葛藤しているシーンがよくあるが、エヴァというレールの上を走っている自分自身との葛藤なのだろう。

シン・エヴァ作中、第三村というところでシンジが立ち直るまでの描写が描かれているのだが、そこでアスカがシンジに向かって「あんたメンタル弱すぎ、そんなメンタル強度だったら、そもそもエヴァにもらないでほしかったわ」と言う。

つまり、こんな作る作らないとか言うんだったら、初めっからエヴァなんか作るなというようなことだろう。

しかし、庵野監督はシン・エヴァを作ることでエヴァ作品に終止符を自分の手で打ち、作中シンジは電車から降りた。これまでのエヴァというレールの上から降りたということだ。

旧劇場版「まごころを、君に」における、「虚構の世界ではなく現実世界を生きろ」というメッセージを、今回のシン・エヴァで改めて「エヴァのない世界で生きましょう、新しい何かを見つけましょうね」っていうメッセージとして私達・監督自身に送っているんだと思う。

エヴァファンである私達も、エヴァというレールではなく、新たなレールの上を走って、自らの手で人生を切り開いていかなければならない。

エヴァからの卒業

映画は2回見て、もうこれはそろそろ卒業せねばと思ったので、伝説のアニメとしてエヴァを心にしまっておこう。

さらば、すべてのエヴァンゲリオン

てことで、風呂でも入ろう〜

風呂は命の洗濯よ♫




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