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160.三好雅之|人材キャリアサポート、不動産仲介、愛玩動物保護、年間日本酒300銘柄制覇 自己紹介

こんにちは。
三好雅之です。
今回は自己紹介します。


現在の仕事について

現在、私は下記のようなお仕事をさせていただいています。

HAO合同会社 代表
ブランディング(SNS運用等)
営業代行業
 人材キャリアサポート
 不動産仲介
各種イベントの企画及び運営の請負
OMOROI.mainichi(メイン日本酒イベント)主催(現在特設サイト開設中)

OMOROI.mainichi日本酒会の様子

割と現時点で何でも屋さんのような部分も持ち合わせておりますが、実は法人としては下記の事業も行えるので、これからも増えていく予定です。

・日用雑貨の販売
・衣料品、衣料雑貨品、装身具、鞄、時計及び文房具の企画、製作及び販売
・酒類の販売
・愛玩動物保護に関する事業

法人化したのは2023年の8月。怒涛のように月日が経ちました。
今日は、経歴やその中でのきっかけや変化なども含めてつらつらと書いていきますので、少しでもどんな人間なのかをお伝えできればと思います。

起業が視野に入るまでの道のり

会社員からビジネスオーナーになるためには土台が違う

元はと言えば、親が公務員で先祖代々公務員ばっかり。
父方の祖母からは、いい大学に入り、いい会社に入り、貯金をしていくことが幸せと言われて育ちました。
私自身も理系の大学に進学し、大企業に勤めたら幸せになれると信じて就職活動をしていたことをよく覚えています。

一番最初の就職先に選んだのは医薬品の営業(MR)でした💊

選んだ理由は
・安定してそうだから(医療費が下がることはないと考えていた)
・収入がいいから(ゆくゆくは年収1000万くらい)
・世間体がいいから(医療業界)
・福利厚生がいいから(当時、上場している大企業)
・人と話すのが苦手なので克服するために
・薬価は変わらないので、値段交渉がなくて済むから
です。

結果、3ヶ月で辞めました🏢

なぜか?
仕事が嫌だったからではなく、
仕事の10年後20年後の未来を考えた時に、
心が躍るほどのワクワクがなかった
からです。
なんとなく父が年収1000万程度の人だったので、それくらいあれば生きていく分には問題ないと考えていました。
(ちなみに父は日本で1.2位を争う頭のいい大学出身だったので、きっとそれが正解なのかなとも思っていました。)

ぶっちゃけ言うと失礼ですが、会社には仕事ができる先輩はいたけど、人生丸ごとなりたいと思えるような人が訳でもなく…

定年までの見えきったレールの上を、走っている感じがして
急に、本当にこれでいいのかなと思ったことを思い出します。

地方配属が決まった瞬間に辞めました。

この時の選択は今でも本当にしてよかったと思える決断でした💪

ただ、その当時の同期や上司には散々の言われようでしたが。
・3年くらい働いてからものを言えよ
・給料泥棒
・意識高い系ね(鼻で笑う感じ)
・次もうまくいくわけがない

ある意味逆風とも言える周りからの目は厳しいものでした。
ですが、そのおかげで、絶対に自分が決めた道を正解にするんだと決意ができたのだと思います。

ちなみにこの時に【湘南乃風の黄金魂】という曲を鬼のようにリピートして自分を鼓舞し続けていました笑

大好きな歌詞の一部抜粋↓(聞きすぎて全部覚えてる笑)

自分らしく生きているのか?
答えばっか追いかけて死ぬのか?
普通に平凡 賭けにでて成功
迷い込む 栄光と挫折の迷路
お前は一人 人生は一回 チャンスはいっぱい 恐れる失敗
「これが絶対なんて絶対ねぇ」
だから生きて 生きて 生きて 必死で!

湘南乃風〜黄金魂〜

どんな幼少期・学生時代を過ごしてきたか

正直、起業なんて1ミリも興味がない幼少期を過ごしてきました。

両親の地元である愛媛県松山市で生まれました。
父が転勤族の影響で、7歳までに愛媛→東京→京都→神奈川→神奈川に引っ越していたので、幼稚園の記憶はほとんどありません。
強いていうなら、神奈川の幼稚園の年長さんの時に女子にいじめられていたくらいです笑

幼稚園

は体を動かすのも、ゲームも大好きなちびっこだったので、鬼ごっこと【星のカービィー スーパーデラックス】に激ハマりしておりました。

有難いことに、
・水泳
・サッカー
・テニス
・ヤマハ教室
・塾
などの習い事には通わせてもらいましたが、転勤もありどれも継続することはありませんでした。

小学生

の時は、3クラス程度の人数だったので、ほとんどの生徒と友達で基本的に人見知りもしない性格をしていたはずです。

中学校

に入り思春期真っ只中となると、友達をつくることはなくなり、訳あって部活にも入っていなかったので、孤独①を体験することになります。
だいぶ短気な性格だったこともあり、中学3年の時には、自分を変えたいなという気持ちがありました。
私はこの時期を【暗黒の3年間】と呼んでいます笑

高校生

になると、中学校からかけ離れた場所に進学することを決めて、心機一転勉強に励むことになります。

ここで自分の中で大きな挫折を味わう大学受験に差し掛かります。

受験の結果は、大失敗。第5希望の大学に進学することになります。

大学時代

は、そもそも勉強に身が入らず。
社会に出て役に立たない勉強をするくらいなら辞めようかなと思ったので20歳の時でした。
当時のバドミントン部の原田先輩にたまたまいたので相談したところ【辞めてやりたいことはあるのか】と聞かれ、全くない自分に絶望し、結局4年の卒業までいることになります。

大学で一番力を入れることになったのは、まさかの部活で入ったバドミントンです笑(サークルがなかったから)

唯一未経験者且つラケット競技もほぼ未経験だったので、かなり最初の1.2年は上達せずに苦しみました。

ただ、2年生の途中に大橋次期部長(私の代の部長)に、言われた一言をきっかけにめちゃくちゃ練習をするようになりました。
その一言は。。。
「お前と練習してても練習にならない」

かっちーーーーん!!!

その日から朝4時半起きで朝練をし続け、引退間際に準レギュラーのバドミントン歴10年目の友人に勝つことができました🏸

また、大学在学中はずっと飲食のキッチンのバイトをしていました。
なぜ、キッチンか。
人と話すのが緊張するし面倒くさかったから。
揉め事の発端は人間関係だから、深く狭ければいいやと思っていました。

実はこの時のバイト先での出会いが運命を大きく変えることになります。

大きく変化する転機

バイト先の先輩Kさんとの再会

正直大学時代はKさんとの接点はほぼなく、色々あって再開したのは大学4年の正月。
久しぶりの再会で言われたことを今でも覚えています。
【悪くない人生と最高の人生は全然違うよ!】
私は悪くないが選んできた22年間だったので、最高が何かを問われても最初は言葉に詰まりました。
【22年間一番連れ添ってきた、自分自分の人生を大切に真剣に考えよう!】
そこから今の働き方や生き方、どんな生活をしていきたいか、何を得ていく人生にするのかを考えることになりました!

変化していく上で大事にしていたこと

社会人1年目の3ヶ月ということもあり、会社も社会もわからない状態でしたが、折れずにここまで来れたのは、間違いなく下記のことをしていたからだと思います。
・学ぶ人を決めたこと
・仲間を作ること
・基礎基本に忠実でいること
・情報を思い切って絞ること
・ビジョンを描き続けたこと
など
他にも思い返したら色々でてきそうです。

1つ1つ具体的に何をしてきたのかを今後記述していこうと思います。


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