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京都人の感覚/食とまなびのブログ

京都での仕事が多い。
ここ5年位は通算すると1年の内、3か月位は京都にいることになるだろう。
当然、京都には知り合いも多い。

京都というと、寺社仏閣であり、歴史や宮中文化などのいわゆる古いものが注目される。
確かに京都にはたくさんの古いものがある。
その中でも私が個人的に非常に面白いと感じるのが、今現在生きている昔ながらの京都人の感覚だ。
これも京都ならではの古いものの一つではあるが、今現在にも通じる非常に大切な感覚なのではないかと思い、その点について少しだけ書きたく思う。


ある商売をやっている家の奥さんが、ある日愚痴を言ってきました。
取引先の人に酷いことを言われたという。
その内容はさておき、その奥さんの怒り方が非常に興味深かった。

「こないだ来はったばかりの、たかだか20年やそこらしかおらへん人に、なんでそんなことを言われなあかんの。
どうせあと20年~30年で次の人が来る(その役職、業務を次の人に譲るということ)。
その時、あの人がやったことで新しい人が苦労することになるのに、無責任な。
こっちは三百年、ここで商売してしてんのやで。

いや、驚きました。
ちょっと怖いくらい・・・。
今の仕事を数百年単位で見据えて動いているということ。
この時間感覚で仕事をしていたことが私には無かった。

しかし、実際に京都では、数百年単位で続いている商いがたくさんある。
その人たちはその単位で今現在も仕事をしているということであり、京都という街の特殊さがよくあらわれた話だと感じた。

長い時間感覚で仕事をするということは、特殊だと思う一方で、これこそ商売の根本ではないかとも思う。
逆に現代の経営者は短いスパンで商売を考え過ぎなのではないだろうか。
短期間では見えていないものでも、長いスパンで考えた時にはその重要さが見えてくるものがある。
そして得てしてそれは非常に大事な価値観であったりするものだ。

自分だけでなく周囲の人に対して。
前後工程に携わる人に対して。
次の世代の人に対して。
世の中全体に対して。
より良くなるかどうかは、ほんの少しずつかもしれないが、全員が持っている影響力なのではないだろうか


ご存知の通り京都には長い間都があり、権力があった。
自身が権力者になろうとせずとも、その権力とどう付き合っていくかは京都で暮らしていく上で非常に重要なテーマとなっただろう。
偏った人間関係を作っていると、ある権力者が失脚し対抗者が権力を持ったとたんに、家ごと村八分にされかねない。
従って、子々孫々、数百年単位、京都で安寧に暮らしていくには、
・本音を表に強く出さず
・日和見的に生きていくこと
・しかし、仲間(身内)の人間関係は非常に大切にすること
が重要となったのだろう。
しかも京都の街は、応仁の乱以降直接的な戦火が無かった。
人間関係がリセットされずに続いてきたのである。


京都に携わる時間が長くなればなるほど、京都を知れば知るほど、
日本の中心、ザ・ニッポンは東京ではなく京都だと肌で強く感じる。



感謝します。

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