見出し画像

訃報が気になるー適齢期が近づいたか

 新聞やテレビで、著名人の訃報が報道される。立花隆、中西宏明、その道では偉い人である。しかし、もう今日の新聞では、探してもない。そういう時代である。80歳になるかならないか、つい昨日まで元気、それなりにフェードアウトはしていた。社会が忘れる、次を待つのか、去りゆくものを追いかけはしない。

 そして私は68歳、そんなに違いはない。両氏ほどの社会的実績はない。そんなことは無意味になってしまった。社会から忘れられること自体が意味がない。ただ自分に、その順番が近づいてきたことを身に染みて理解、体得するだけのことである。高齢者を見て、ああ年寄りだなと思う、半面、ひょっとしたら、自分の方が年上・年寄りではないかと思うことすらある。

 老年とは、そのようなものである。

 生老病死、釈迦がまだ青年期に感じたこと。私は、いま老である。高校生が小学生と同じレベルにしか見えない。逆は、年寄りは年寄り、中年・大人は中年・大人であった。年寄りは、これからどう生きるのが、いいのか、少なくとも私自身にとって。敬老会など性に合わない。わが孫ならともかく、よその孫など、一般的にパンダと同じように可愛いと思うだけだ。わが孫への愛情とは別だ。

 昼カラ、健康マージャン、グランドゴルフなどなど一部の活発な社交的な高齢者がやること。これまた敬して遠ざける。悪いとはいわない。無縁だ。現役時代そのままの生活、いずれ時が来れば、できなくなる。せいぜい70歳代、それ以後は、あとからの年寄りに席を譲らざるを得ない。

 答えのない老いの繰り言。ゲノム編集や遺伝子で、すべては神の摂理で生まれる前に決まっている。ある医学者の話、髪の毛を毛根から数本引き抜けば、その人がいつ頃認知症になるか判定できるとのこと。怖い話だが、事実だろう。わが父は、私の年齢で、あきらかに認知症の気配があった。

 それに俄然、抵抗しようと思う。蟷螂の斧、神への挑戦か。祖父は76歳で単独で他県へ集金し、帰宅してから、「しんどい。」といって、1カ月寝込んで死んだ。76は早い、88まで行くつもりだが、死に方は、そうありたい。どう気力・体力・知力を維持するかが問題だ。コロナに負けない気持ち、なんとしても。そのほかにも、たくさん対抗すべき仇がいる。

 立花隆「臨死体験」、いい話であった。死ぬ前に、脳の一部が、死に臨んで安らかに死を迎えられるよう働く、素晴らしい機能だ。そんな機能を誰が作ったのか、やはり神か。白い服を着たイエス・キリストではなく、この世界のシステムを動かす何か超偉大な存在かもしれない。

 神社で一人祈ったり、日の出や日の入りを見ていると、神の存在を思う。そして永く共に暮らした妻にも、似たような感謝の思いを持つ。神では、ないけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?