番外編 ミートキャリア 座学3 いや、それ以前の問題 なぜ私はキャリア支援をしたいのか?を考える前にキャリア迷子のジェネシス。恨み言ぶちまけてるだけです。

資格は取ったものの、大したこともできず、うずうずして現在に至ってようやく相談を受けられる準備ができた・・・・気がした。
回りくどいのは断言ができないから。結果にコミットできないから。
結局行動しないと、成果が出ないとやりましたってことにはならないので、あまり大風呂敷は広げたくない。
今度みんなで集まるときには感想と行動宣言とやらをするらしい。
結果にコミットするのは勇気が要るね。

思えば仕事でいいキャリアを残せなかった。何もできなかった。浪人留年はしたが、あの大学あの学科からしたらまあまあ名の通った会社に入って、あとは組織の流れに従っていけばなんとか轍は残せると思った(因みにキャリアの語源は「轍」らしい。)
でもそんな甘いもんじゃない。
最初の上司がワーカホリックで、大阪の本社勤務時に宿直室に住んでいたという噂、奥さんが会社に迎えに来たことがあるという噂(実際ほんとだったんだろう)。
研修で大阪にいたときは「気ぃつけや」って言われてたし(どう気を付けるんだかわからんが)。
実際2年目から夜を一緒に過ごすことが頻繁にあり(怪しい意味じゃない)、すでにうんざりしていた。過労とストレスで互いにイライラ。上司からは頻繁に怒鳴られ、話しかけるのも嫌だった。だからホウレンソウも嫌になり、それで怒られる悪循環。ああ、思い出してもうんざりだ、まだ2年目だぞ、当時の私は。
今なら労基署とか行政サイドで罰則があって当然くらいなんだが、当時は当たり前だった。業界3位か4位くらいの規模なのが信じられない過重労働。
会社の規模がどんな評価だろうと身の回りがしんどかったらもうどうでもいい。
辞めることを意識したのが2年目あたり、でも行動に移すのはまだあと。
結局辞めたのは数年後に発注者を対応のまずさで怒らせたのがきっかけ。若輩者ながら責任を取ったというが、このままここにいたら◎されると思った。よその部署が定期的に他事業所から援軍が来て人材の補充がされるのに、うちに限って何があってもまったく二人きり、文字通り二人きり。
辞めたいと最初に行ったのは上司にじゃなく、その上の、重役クラスにだ。なんか嫌がらせっぽいがたまたまその日はいたし、私が苦しんでいる事情も把握してたのを知っていたから泣きついた。
「もう疲れました」 
逆に本社があった大阪から考え直せ勿体ない、大阪に来んかと言われた。
あのですね、もう辞表は受理されたんですよ。
あの頃は目いっぱい無理してた。
全てがタイミング悪く、救いの手は回ってこなかった。辞めるの勿体ないも君には期待してるんだも全部嘘だ、社交辞令だ。だったらなんでこんな無茶苦茶な働き方して苦しんでいる社員に見向きもしないはずはない。

辞令 願いにより解職する

辞めますと最初に泣きついた重役さんの最期の一言は覚えてない、辞令交付時になんだか悔恨っぽいこと言われたのはうっすら記憶にある。
もう四半世紀前の話だ。
今も後悔してるんだろうな、当時は辞めてせいせいしたし、上司にもざまあみろって思ってたが、悔しいことに、意外にも会社はそれでも機能する。社会は回る。世界は動く。自分がいなくたって、誰も困らないのだ。

以上、私が働き方に迷い続ける原点の雑記。最後まで読んじゃった人、だから無視してって言ったのに・・・

以降、転職ジプシーはここから始まった。
安住の地はあるはずもない、だって自分がどう働くかがはっきりしないから。
まあ、転職軸なんてミートキャリアで初めて知った言葉だが、私にはありません。無いし、ブレまくり。技術屋としてこう在りたいというビジョンもなく、しんどさを回避して会社変わった。居心地のいい環境は自分で作るもんじゃない、すでにあるところに自分が合わせていけるか、それが社風ってやつだ。

転職ジプシーのジェネシス中のジェネシス。ここからのダメ話は自分が情けなくなるので割愛。

この後、同僚がメンタル不調で辞めたり、パワハラ受けて家出したまま行方不明、こっそり帰ってきて家族に連れられて辞表出して消えてしまった奴もいる。
自殺した同僚がいたことも忘れてはいけない。相当のプレッシャーに圧し潰されたんだろう。

自分のこと、周りのこと、働くことで、生きることで、食つなぐことでこんなに悩んで不幸になるのは不条理だ。
しかしながら、私は他人の意見を素直に受け入れられない。我が強いのか、他人を信用できないのか、悪評ならなおさら反発するし、期待してるぞも信用しない、褒められても裏があると疑う。
会社を辞めないほうがいいと誰に言われても自分がしんどいんだから辞めたし、そもそもこの業界に行ったのだって拙い自分の判断で決めたことだ。自分の判断だからその選択に文句は言えない、決まった環境で精いっぱい居場所を作るしかないのだ。それでもそこに安心できる場所はなかった。食い扶持を守るのに精いっぱいだった。職業選択、進路選択そのものが上手くいかなかった。将来どう働き、どう生きるかを考えていなかったのだ。

ふうっ、やっとキャリアを考える本編に差し掛かった。

今思えば、進路を考えるあたりから、親でもない、教師でもない、それ以外に信用できる、全てを聴いてくれる人がいればよかったのだ。

親はバカだし。
中卒だからってことじゃない、食わすために必死だったことは認めるが、それ以外に子供のことに関心を向ける余地はなかったのだ。不幸にも成績は良かったのは知っていたから、周りにも「あいつはほっといても大丈夫だから」と吹聴していた。私にも直にそういわれたことがある。
それは全幅の信用じゃない、見棄てられたのだ、子供心にそう思った。
飯食わしとけば勝手にどうにでもなると思ったのか、だからバカなんだ。

教師も信用できなかった。いわゆる進学校に入ったが、結局お前の成績では行ける大学はここかここか、という杓子定規の進路指導で生徒が、私が納得できるはずもない。所詮地元の名門、進学校の伝統なんてその程度だ。

どうも中学高校当たりの生活環境で、信用すべきだった大人が信用できなくなったようだ。今も他人が信用できないし、褒められても裏があると思うし、期待されても嘘だと思う。そもそも期待されても困る。
自分の能力すら信用できないから真の実力なんかわからない。どうすれば能力を発揮できるかわからないし、最善の選択が何かもわからない。

こんな足搔きの繰り返しが、信用できる相談相手を求めるきっかけだったのではないか。自分の判断が全てだし、それもことごとく裏目に出た。そんな判断がただしいのかどうか、相談してくれるひとが必要だった。

振り返れば、ろくな人生じゃなかった。
人生の後悔、キャリアの後悔、食いつなぐだけの仕事だった。今や食い扶持だって保証されたもんじゃない。
そんなこんなで悶々としてた折にカウンセリングに出会った。今も師匠と崇める人だ。親も教師も上司も信用していなかった私が、あっさり信用してしまうのだから恐れ入る。

ミートキャリアが終わったら、師匠に報告に行こう。
そこでキャリアカウンセリングの練習しましたよ、と。
それが仕事につながれば最高だ。
学んだことが仕事につながる実績と認めてくれなければそれはそれでしょうがない。仕事につながる工夫を自分でするしかない。
でもこれだけはいっておこう。
何故私はキャリア支援をしたいのか?

今までの報われなかった人生を、報われる、意味のあるものにしたいから。

報われたいなんて、自分が動機本意だ。支援なんて施して、人に感謝されたいわけじゃない。そんなお人よしじゃない。
ただ、報われるために培った技術を発揮して成果が出たら、その人も幸せ、私も納得。
うん、それでいい、それがいい。
やっと動機が固まった。最初の行動も決まった。
あとは最後の模擬カウンセリングと卒業式だ。


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