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ヒトだから出来ること

この世の教義・理は逆転している。

これは以前から私が述べている事だ。

ただ、ちょっと説明が難しい。

「何を基準に?」と言われても困るところ。べつにこの世と鏡合わせの「もう一つの世界がある」って事を、声高らかに主張したいわけじゃない。

なんというか…目の前に具現化するヒントを逆に捉える。すると、なぜか真相に到達できるようになっているのだよ。

なぜ?…って質問は私にせず、神とやらにしてくれ。

私もどうしてかは、分からん。分からんが、どうやら…そうなっている。

さて、「この世では結果が大事」とされている。まぁ事実だろう。結果さえ出れば、そこに至る過程はそこまで追求されないと思う。

加えて、命も大事。これはもう大前提。

実際そう習うし、命を大切にする事で、その行為は「道徳的」とか「倫理的」と称賛される。

ならば…これらを逆転して考えてみると、どうなるだろうか?

面白い試みだとは思うが、ここを否定するなら、それなりの工夫と柔軟性、そして勇気が必要だと思う。

いきなり「命も死も、実は大したことじゃない」と声高らかに言っても、この世においては説得力があるまい。

でもね…それでも言うが、この世における「ヒト」は、まるで鏡の中の住人であるかのように、逆転した理の中にいるのだよ。

「命より大事なものなんて、無いんだよ。一番大事な物だよ。尊いのだよ…」。

その「訓え」に反発するなら、それ以上のものを探し、示す必要があるだろう。

私が思うに、だね…。命を賭けて何かを極めんとする、その「過程の輝き」に比べれば、死すらも大したものではない。

我々はたった80年〜100年そこそこしか時間がない。いや…人によってはもっと、ずーーーっと短い。

でも、だからこそその短期間で、美しくも儚い光を放つ。

その「過程の美しさ」に比べれば、「結果」など大したものではないはずだ。

もちろん、全力を出しても、失敗するかもしれない。

でも、その過程において全力を出すことができたなら、実は結果などさほどの問題でもない。少なくとも、私はそう思っている。

だからこそ、ヒトは全力で好きに生き、好きに死ぬべきなのだ。私はそれを、亡きおふくろから教わった。

まぁ尤も、寿命を削ってまで全力を出すには、やっぱり健全な肉体は必要になってくるわけであり。それも、不健全なまま死んだおふくろから教わったこと。

そうなると結局、体は大切にする必要がある。

…って、あれ?矛盾するなぁ(笑)。

うーん、ヒトってのは何とも不便で解し難い生き物である。

でも少なくとも、この世においてここまで「過程」を大事に出来るのは、間違いなく人間だけだ。

神=無限。すなわち0と1の存在。もしそんな存在がいるなら、全てを理解している反面、「過程」ってやつの貴重性については、我々ヒトほど理解していないのではないか?

だからこそ、我々は存在している。

全知全能の存在にすら理解できぬ、「過程の美しさ」ってやつを証明するために。

「時間」という錯覚を武器に、ね。

…「かの者」はただただ、そんな我々を…観察しているだけなのかもしれない。

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